名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-02-24から1日間の記事一覧

確かに儲けもの

宝永5年閏1月28日。番頭日下次郎左衛門が近頃役を解かれる。(中略)日下は好色のため。女を高須から連れ来ることがあった。女を駒ケ岳から高須へ呼び寄せ、そこから名古屋へ連れてきた。供番吉田弥右衛門100石加増で津守様(松平義行)御用人となる…

ありがたや

宝永5年閏1月27日。近頃、黄檗東輪寺に五智如来を造立した施主は出来町の者であった。1貫5匁かかったと云々。

兵八が女を殺したのなら若党も殺されているはず

宝永5年閏1月26日。申刻(午後3時)、当時江戸留守の五十人林猶右衛門召仕の22,3歳になるはるという名の下女を平野彦三郎若党稲川太右衛門が呼び出し話をしていた。向かいの加藤弥五八の門の側東寄りで切り殺し、紙5、6枚を繋いだ巻物に書置と書…

これも見事な初期消火

宝永5年閏1月19日。辰(午前7時)過ぎ、住吉町西側、やぶ下近所の裏屋で火燵から火が燃え上がろうとするが、すぐに消し止める。山伏が住んでいたと云々。役人などが駆け付ける。

やっと金左衛門の裁きが終了です

宝永5年閏1月18日。昨年春に行方をくらました熱田大宮司の妻を山澄大膳・高木志摩・間宮造酒・毛利治部右に探し出せとのことであったが未だに見つかっていなかった。この日4人にもう探さなくてよいと仰せ渡しがある。評定所東屋敷で佐藤金左衛門が切腹…

今なら働き改革でアウト

宝永5年閏1月16日。近頃は御屋形へ磯姫様のことを話し合うため横井源五兵と熊谷与兵が毎日出かけていた。1日中で、その上夜は戌(午後7時)過ぎまでおられることが多かった。与兵は寄合にも出てこなかった。

隼人正って殿にもズバズバものいう人

宝永5年閏1月15日。江戸において昨日大久保加賀守から奉書がある。この日、成瀬隼人正が登城したところ大樹ならびに西丸様と対座で尾州への暇を下される。時服をいつもの通り下される。先ごろ隼人正からの3つの願いについて噂がいろいろとあった。ひと…

町人の子が武士の子をいじめるとはだいぶ時代劇のイメージとは違うなあ

宝永5年閏1月13日。渡辺飛騨守妾が男の子を産む。42の2つ子(父親が42になる年に2歳になる子は凶)なので服部平内の子とし、名も箕田源之助と名乗る。初めは仁左衛門と名乗っていた粟田十右衛門の子が町人を切って立ち退く。十右衛門は出来町あた…

1日中遊びまわってるのか

宝永5年閏1月10日。文左衛門は辰半(午前8時)から井上文右、同定ノ丞と熱田を詣でる。愛宕の社で酒などを頂く。そこから楽しみながら熱田へ向かう。熱田の茶屋で食事をし、申(午後3時)頃帰宅する。申半(午後4時)から文左衛門は勝蔵のところへ出…

姫の旅行は準備万端

宝永5年閏1月9日。磯姫様(綱誠娘)が江戸へ向かわれることとなったので、東海道の宿を見分しながら江戸へ向かってその様子を報告し、戻る際には宿を修繕するようにと靱負殿の家で作事奉行鈴木弥右衛門に申し渡される。手代は残らず、大工は4人もやって…

被害妄想なのか、それとも真実か

宝永5年閏1月8日。夕暮れ頃、御園町東条文蔵の南隣竹腰民部同心竹内紋右衛門という者が、七軒町下山下あたりの町屋の住む手習師匠をする牢人溝尾新平という者のところへやって来た。新平は近所に出かけていたので下女に頼んで呼びに行かせ、その上酒もを…

宝永5年閏1月の地震です

宝永5年閏1月1日。戌(午後7時)過ぎ、少し地鳴りがする。寅9刻(午前5時前)、少し地震がある。宝永5年閏1月2日。亥半(午後10時)と子(午後11時)に2度地鳴りがする。子半(午前0時)に大きな地鳴りがして、少し響き渡る。宝永5年閏1月…

宝永5年閏1月の天気です

宝永5年閏1月1日。晴。宝永5年閏1月4日。薄曇。近頃は連日曇りがちである。宝永5年閏1月6日。近頃連日寒い。朝に間はたいてい曇り、その後晴れる。風が吹くのは毎日のこと。宝永5年閏1月8日。快晴。朝はことのほか寒く、手水を見ると凍っている…

国府宮はだか祭の儺追(神男)、当時は拉致するように選ばれてました

宝永5年1月13日。甚目寺で辻番を務める山田彦左衛門が番に出ようとして儺追に捕る。すぐに暇を出す。