名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

兵八が女を殺したのなら若党も殺されているはず

宝永5年閏1月26日。
申刻(午後3時)、当時江戸留守の五十人林猶右衛門召仕の22,3歳になるはるという名の下女を平野彦三郎若党稲川太右衛門が呼び出し話をしていた。
向かいの加藤弥五八の門の側東寄りで切り殺し、紙5、6枚を繋いだ巻物に書置と書きつけた。
もうひとつには封をし、それに上の字と下に稲川太左衛門と書き、うつぶせになった女の背の帯のところに置いて立ち退いた。
文左衛門が翌日行って見ると項(ウナジ)が前に半分ほど切れていた。
これは大きな傷で、その他にも口のあたり、前では手の裏側、背中など10ヶ所ほど傷があった。
翌日、津田新十郎のところへ彦三郎を呼び、この若党請人に探し出し、口書(供述書)を差し出すようにと。
太右衛門はこの朝熱田の飛脚宿へ手紙を持って行ったが帰ってこなかった。
部屋にはこの飛脚宿の受取と封をした書置き1つが置いてあった。
その大意は、私はこの日女を殺しに出かける。
日頃は命を大切にと思っていたが、やむを得ない事情でこうなってしまったと。
彦三郎子兵八のことでは悪いうわさが出回っていた。
いろいろとよくない行いもあった。
この春、石川竹右衛門のところにこの女が奉公したが、知っているわけでもないのに竹右衛門子にいろいろあるのでこの女に暇を出すようにと兵八は手紙を送っていた。
このため中根健右に頼んで真偽を聞き取らせると兵八はこう言った。
わが親子が関係なく、若党を吟味することだと云々。
このため竹右のところから暇を出した。
その後、林猶右のところへ最近奉公に出ていた。
若党の部屋でこの女と兵八と5、6度会っており、彦三も知っていて他人に話していた。
世間でもこの女を兵八が呼び出して切り殺したと云々。