名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

元禄の大地震です

元禄16年11月22日。
丑2点(午前1時半頃)、地震があり、かなり長く揺れる。余震もある。
文左衛門は起きて母親のところへ行く。
庭池の氷は砕け、水も吹き出しで濁流のようであった。
18年前の8月16日辰刻(午前7時)の地震よりも長く揺れる。
丑半刻(午前2時)には遠くで響くような音がして、後で聞くと光物が飛んだと。
明け方まで少しずつ3度揺れる。
甚目寺の仁王は転倒し、足が傷つく。
尾侯の屋敷では市谷屋敷の乾(北西)隅の石垣が崩れ、その他も所々崩れる。
雨水もこぼれ、10の内5つの桶が落ちる。
戸障子はずれてしまい、永らく開けることもできず。
対面所やその他書院の張付(壁)は縦横に裂ける。
壁の上塗りは全て落ちてしまう。
場所によっては1間(1間は約1、8メートル)壁が倒れ、あるいは2、3尺(1尺は約30センチ)抜け落ち、穴が開いた障子紙はクハン(鬼神)が入ったように裂ける。
窓が崩れ落ちたところもたくさんある。
中玄関の戸は開かないので叩き割って通行する。
中玄関前の門は倒れ、番所と同じように東に倒れる。
台所のところの高塀は道に倒れ、殿中の鴨居は落ち、引き裂けたところも多くある。
広敷(広間)の中も破損する。
局の6間長屋はひしゃげると。
柱と壁の間に1、2寸(1寸は約3センチ)ずつ穴が開いたところも多い。
御殿を囲む囲い、土居の上の高塀は合わせて100間ほど崩れる。
控えの柱の新しいほぞも折れる。
雲州(松平義昌)の屋敷でも長屋の壁が残らず落ちる。
富士見坂下の中間1人は驚いて外へ出て土居の上に駆け上がり、あまりの揺れに気絶して上から転げ落ちる。
家中で死者はなし。
他よりは揺れも少なく、被害も他よりは少ない。
市谷の揺れは少なく、戸山は市谷よりも少なく、赤坂あたりから芝、下町あたり、桜田大名小路のあたりは特に強く揺れる。
尾州熱田の海でも潮が3度満ちる。
尾張の輩では津侯(松平義行)用人酒井金太夫尾州へ戻るためここ(小田原)に宿泊しており、巳(午前9時)に出発すると先に駄荷を出し、金太夫はあがりはな(上がり端)に腰かけて煙草に吸っているうちに大地震にあう。
側に羽織、その上に刀を置いていたが、それを持って外へ出ようとするうちに家がひしゃげてしまう。
急なことで誰も知らなかったが、家人などがしばらくして覆いかぶさったものを取り除き、何とか金太夫を引き出すが強く押しつぶされていた。
名古屋へ帰ってもしばらくは回復せず。
太夫が取り立ては若党は刀を取りに戻り、押しつぶされて死んでしまう。
12月2日に金太夫尾州に着く。
書院番三尾安右衛門は江戸へ向かう途中ここに泊まっていたが、横になっているうちに家が倒れる。
若党1人と中間1人がようやく出て、安右衛門を呼ぶと、かすかに声がするので見ると押しつぶされている。
急いで天井を破り、屋根を崩して何とか引きずり出す。
立つことが出来ないので肩にかけて立ち出でる。
安右衛門は大小さえなく、寝巻だけで命は助かる。
金子3、4両を首にかけた他には落としたものは全て焼失する。
安右衛門に金を預けたものはとても多く、平田半右衛門のところには20両、野呂瀬半兵衛のところには13両、その他にもあわせて100両ばかりと云々。
全て焼失してしまう。
若党と中間の他召仕4人(3人とも)全員死んでしまう。
この若党は昨年渡辺平兵衛に仕えた新之右衛門という者で、尾州に帰ってから話では、新之右衛門は出かけようとして地震で塀が倒れ掛かってくるのを切り破り、また倒れ掛かってくるのを脇罪を抜いて切り破り、ようやく出たと。
大小を差しており、安右衛門を探し出すと。
槍持ちが助けてくれと呼んでいたので見ると、7、8人でも取り除けないような虹梁の下におり、新之右衛門は助けるには自分たちの力ではどうしようもないので念仏を唱えよと言う。
槍持ちは覚悟して念仏を唱えるうちに火が燃えてきて焼死する。
新之右衛門は血まみれになりながら江戸へ使いに行く。
安右衛門は残り、江戸には行かず、来月3日に尾州へ帰り着く。
出雲様腰物奉行岡本幾右衛門の泊まっていて何とか外に出たが、召仕が刀を取りに戻り、出て来ると死んでいた。
八三郎様から少し前に半元服の祝儀に飛脚を遣わしたが、その夜小田原を通って見てみると小田原の海から江戸の方に2、3尺ほど波が所々燃え上がっており、とても奇妙なことだったという話を文左衛門は聞く。
熱田不動院も江戸へ向かい戸塚に泊まっていた。
夜中に宿の主人が慌てて、海が鳴るのは尋常なことではない、去年の津波と変わらないので急いで山に上がるようにと。
取るものも取りあえず上がると津波が山の中腹までやって来た。
この時、とても暑かったと。