名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

とやかく言う前に手伝わないと

宝永2年2月10日。
未(午後1時)過ぎ、駿河町下から火が出る。
火元は小普請組上野作兵衛控の借家に住むすぶた権左衛門という古かね(金)屋であった。
2町(1町は約109メートル)ほど先まで東へ火の粉が飛んでいく。
両側6,7町あまりが残らず消失する。
奥田町なども残らず焼失する。
足軽頭の下屋敷なども焼く。
申刻(午後3時)過ぎにおさまる。
目付鈴木安太夫のところはひどく燃えてしまう。
僕などが片付けているところへ津田九郎兵家老栄(サカ)尾八右衛門という者がやって来てその様子を覗いていたので、安太夫はきつく八右衛門を叱りつける。
八右衛門もまた言い返したので、八右衛門は九郎兵に預けられる。
太夫若党1人も焼死するが、家に戻ってから死んでしまう。
中間も怪我をし、押の者も焼過(ヤケド)をする。
町人1人も焼死する。
これは平野甚右衛門足軽小頭の子で皮屋の弟子であった。
火事のため道具を運び出そうとやって来て不幸にも焼死してしまう。
所は塀和義左衛門控の町屋であった。
親類ではないと。
この日、石河壱岐守家来浅川久之丞が江戸へ出発する。
真言宗醍醐金剛王院・万里小路殿・西の丸大納言寵女秀の方の3人は兄弟で、久之丞はこの3人の伯父であった。
尾張の安田治左衛門弟藤蔵は3人の弟であった。
昨年金剛院から手札(自筆の手紙)が壱岐守のところへ届いたと。
秀の方が世話した奉公人の働きぶりを知りたいので暇を出してくれないかとのこと。
それならば皆が満足すると云々。
壱岐守は相談し、殿の許しを得て了承の返事をする。
このため少し前、久之丞は京都へ出かけ、翌日尾張に戻る。