名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

成功にうかれていてはいけない

元禄16年5月8日。
江戸で小姓千村幸左衛門が伊綱の法を伝授し、昨日終わる。
上手くいったので大いに酒を飲む。
この朝、公の仏参がある。
先番に当たったので寅の刻(午前3時)に出るはずを、丑の刻(午前1時)に相手の上田一之丞を誘いに行ったが早いと言って出てこなかった。
幸左衛門は1人で御用と門ではなく上野宿坊乾昌院に出かけた。
住持はまだ寝ていたが、今日仏参であるにもかかわらず不注意だと寝間に入り脇差を抜いた。
人々がこれを止めた。
公がこれを見て、この者はいつも酒をたしなみ、痞(胸がつかえるような病気)なのでまずは体裁を整えよう(原文:名を付けまし)との有難い考えを示される。
2、3日過ぎると声高に御前での様子を叫ぶので戸山屋敷の牢に入れる。
1度逃げ出したのを捕らえて押し込む。
その後、尾張へやって来る。
納戸児嶋三郎兵衛は伊綱の相弟子であったので幸左衛門と届けもせずに会う。
このため今月27日に逼塞となる。
晦日に赦される。
幸左衛門と届けもせずに会ったのではなく、ちゃんと届けはしていたとも。
近頃、岩之丞様抱守の水野伝右衛門が乱心する。
伝右衛門は甚右衛門の兄であった。
今月末に尾張に戻り、水野六座衛門の跡取りに預けられる。
近頃、熱田大宮司が隠居を仰せ付けられる。
跡目から5人扶持を下されるはずである。
蟄居する。
昨年江戸へ大宮司が出かけた際、桂昌院様に取り入り、神宮寺堂の造営を勧めてその功徳は計り知れないと機嫌を取った。
しかし、大宮司家に伝授した朱印を紛失してしまった。
新たに内緒で朱印を給わったことを寺社奉行に届けたが、このようなことは尾張寺社奉行衆から寺社奉行から届けることであると聞き入れてもらえなかった。
その上、尾張寺社奉行にも伝わり、すぐに伝えなかったことを責められ、隼人正などは大宮司を強く叱りつけた。
あちこちで迷惑をかけ、朱印もないまま帰って来た様子が良くないとこの度蟄居させられる。
この後、寺社方から調べに行くこともあった。