名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

今なら隔離する病気です

宝永1年6月6日。
夜、鈴木郷左衛門が死ぬ。
供番で43、召仕3人も同じように患う。
召仕は在所へ戻るが、2人は死んでしまう。
7月5日には郷左衛門の母が死に、7日に鈴木義左衛門が死ぬ。
義左衛門は郷左衛門の従兄弟だったが、郷左衛門の看病に来てこの如く。
郷左衛門甥鈴木勘六は郷左衛門の葬礼に出かけ、戻ると患い、7月25日に死んでしまう。
勘六兄理右衛門も7月11日の夜に死んでしまう。
ともに全員が熱病を患う。
郷左衛門・理右衛門は金を多く貯めており、町屋・新田も持っていた。
近頃、足軽頭横井新蔵は名古屋に戻るにあたって吉田伝右衛門も連れて戻る。
初め公儀から出た切手(証文)には尾張侯の名はなかったが、この度は尾張宰相殿家来吉田伝之右衛門は乱心し(ママ)、手かね(手鉄、手鎖)をすると云々。
このことは略す。
伝之右衛門は乱心し、江戸にある時番をする足軽にこう言った。
とてもくたびれたのでどこかに金子があるはずだからそれを煮て与えてほしい。
これで元気を養うと。
足軽らは聞いたふりをして、しばらくしてから金子が固くて煮ても溶けなかったと言った。
伝之右衛門はこれを聞いて、金を槌で叩いて細かくして与えてくれと言った。
金を叩く真似をして、金はとても固くて細かくすることはできないと言った。
それならば金を見せろと言って受け取り、これはどうしようもないと言ってかぶりつきながら、実に固い金であると言ってひたすらかぶりついた。