名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

僧侶の争いはいつも見苦しい

宝永2年6月20日。
未刻(午後1時)、海部伝右衛門は座敷で鉄砲の筒薬1貫匁ばかりをもろふた(長方形の木箱)に入れ置き、しんざしにかためて(尻刺しか?、戸に棒をかう)伝右衛門は外へ出かける。
惣領勘太郎9歳が密かにやって来て、火をつけるとたちまち爆発して顔と胸のあたりをやけどし、障子などはなかば焼けてしまう。
しかし外には火は燃え移らなかった。
火事だと火消役人などがたくさん集まり、広井のあたりからもやって来る。
文左衛門が見廻りに行き、勘太郎が勝手で叫ぶ声が座敷まで聞こえた。
22日の夜に終に死んでしまう。
目付衆へは延焼の粉が6、7合あったと。
近頃、近松幸安向かいに正教寺という一向宗の寺があった。
かつては北の方に門があった。
近頃、東に門を開き、幸安の門と向かい合った。
幸安は寺に断りを入れてこう言った。
我がところには薬取などが多くやって来る。
そちらの談義などで人の出入りが多い時、なにかと不便をかけては気の毒である。
もうこの家を出て行った方がいいだろう。
町代に速やかにこの家を売り、良い家を求めると。
坊主を始め町代などはこれに迷惑し、いろいろと頼み込んで毎日数人出かけては説得したが受け入れてもらえなかった。
このためこのことが寺社奉行の耳に入る。
奉行はそれほどまで頼んでも聞き入れないのならばこれ以上頼む必要はないので放っておけと。
これを聞いて幸安はたちまち聞き入れる。
当4月頃から延通寺感光院で海西郡鵜本村西覚寺に命じて次第法談をさせた。
聖徳太子の出生から卒去までのことを説いた。
弁舌がとても良く、人が多く集まり、反対に通所には人が来なくなってしまった。
このため通所から今月6日西覚寺を呼び寄せ、本寺から許しがないのに演説をしたのはいかがと詰問し逼塞を申し付けた。
円通寺はこれを聞いて、他所ではそうかもしれないが、尾張では次第法談、その他の木像の仏・位牌・石塔・仏前諸種の供物など許しがなくともいづれの頃からかどこの寺でも行ってきたのに、この度改めるのはおかしいのではないかと。
その上自分に直接言わず、西覚寺だけを詰問するのはおかしいと今月11日の結願(満願、最終日)まで初めの通り法談をした。
このため通所から本寺へ訴えた。
すぐに六条東門跡から即源がやって来て、円通寺を呼び寄せた。
その上西覚寺は所へ預けた。
寺社奉行からは円通寺を京に遣わすのはいかがなものかとしばらく遣わさなかった。
しかし後に終に出かける。