宝永2年11月10日。
近頃、桑名町3町目太左衛門が預けられ、詮議がある。
これは元々さいとり(才取、米などの仲買)が大津町にあり、今はここに庄屋を泊めていた。
代官の手代や百姓などに頼母子を依頼して、太左衛門に今の家を買い求めさせ、ほかの庄屋宿へ来る者も無理矢理太左衛門の宿に泊まらせるなど色々なことがあった。
濃州関などから遊女呼び寄せ、その他にも盲女を世話して座頭を呼び寄せ、手代などの遊所とし、結構派手に遊ばせていた。
起村右衛門七子が三宅善内の手代見習いをしていた頃から美濃の女は自由にできたと云々。
この者は手かね(手鉄)をかけられ、国奉行の内牢に入ると云々。
冨永三右衛門手代にも同様の者が2、3人いた。
代官手代が張本(首謀者)であった。
佐田弾介・益田安兵衛が揚り屋入った入ったと以下にある。
近頃聞いたところでは濃州兼山の陰陽師吉田若狭は毎年江戸へ行き、判を見て吉凶を占うのは神のようであった。
諸大名もとても吉田若狭を信仰していた。
今年も上手く大金を取り上げたことに増長して鑓・具足櫃などを持たせていた。
その頃、五十人目付が錦織へ行こうと味鏡(味鋺)川で乗り合わせ、尾州吉田若狭と書いた荷札を見て子細を問屋に尋ね、近頃老中に報告が入った。
すぐに寺社奉行へ詮議するよう仰せ渡された。
その後若狭は申し開きをし、罪には問われなかった。
近頃、大津町下清浄寺から少し前のねり(練)供養善の綱(仏像の手にかけた綱)を片付けたいと奉行に報告すると、元来開帳の仏のことならば好きにしてよいと云々。
僧は松寿院様から仰せ付けられた布と気になるようなこと言った。
奉行はそういうことならばますますこちらの知ったことではないと取り合わなかったので綱をどうしていいかと困ってしまったと。
この僧はとても欲深く、策士で淫乱、不法の悪僧だったので、奉行を始め誰もが憎んでいた。