名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

いろいろあった1年でした

宝永3年12月30日。
寅(午前3時)過ぎ、甲斐作事奉行溝口藤蔵が年頭に屋敷に出向くと上下を着用し、僕も連れずに自ら提灯を提げて巾下新道を行くと、口から目にかけて少し切りつけられる。
藤蔵は気絶し、犯人は逃げ去る。
元日に藤蔵は立ち退く。
徳岡道波が治療し、やがて良くなる。
夕方に同僚と借金のことではなはだ口論しており、この4人の仕業だと。
しかし、藤蔵があまりに不甲斐なかったので闇討ちに遭ったことにして立ち退くと。
17、8日の頃、建中寺裏門あたりにある作事方が法事の道具入れた道具屋で、錠を切って中にあった道具を盗まれた。
しかし建中寺はこれを知らず、訴えもしなかった。
側同心頭・国用人立合が駿河町で道具を見て露見し、詮議となった。
建中寺門前の勘七という者がこれを盗み、艮(北東)の角から運び出していた。
勘七には仲間がおり、出来町まで道具を売るために車で運んでくるが、御用の文字が見え、怪しいので誰も買わなかった。
この間、1両日道具をよそに置いておいた。
この時、立合が見たと。
29日夜になって酒屋清六のところへ持ってきて、1両2分で売払った。
詳しくは来年に記すのでそちらを見るように。
今年の夏、愛智軍長久手曹洞宗常照庵に福富三郎左衛門の作った池田勝入などの碑の銘を塵点録に載せた。
木に書いてあり、中に建ててある。
近頃、青木伝七に50石の足米(加俸)がある。
近頃、竹腰山城守が諛(ご機嫌取り)のために松平美濃守に会おうと取次にいろいろと頼むと音信(贈り物)を持ってくるようにと。
このため目録では綸子(織物)20巻、障泥(馬具)2掛、その代金は50両余り。
やがて美濃守用達の町人から美濃守取次役の判を持ってきて代金を受け取る。
また、山城守は年頭、土用の氷砂糖、寒の銀杏、歳暮の4回の献上物をしていた。
その上、老中より以下の役人へこの献上の残りを遣わしていた。
在江戸でなくても恒例となっていた。
今月28日、中橋村で宗右衛門という百姓が夜に盗みを追いかけ、17,8町(1町は約109メートル)追いかけ、蜂須賀村で盗みを突き殺した。
この盗みは津島の桶屋久七という者であった。
宗右衛門のところに3度盗みに入っていた。
中橋村の庄屋九左衛門に宗右衛門は盗みにあったことを度々訴えていたが、放っておけと、それ以外にもいろいろとあり、翌春に九左衛門は怠慢であると牢に入る。
長嶋町に金具屋があった。
死んだ後、男子2人は家や財産を辞退し、譲り合って受け取らなかった。
又お互いに文句もなかった。
秋、干魚を売る米倉町の賤商で兄が病で死にそうになった。
その弟が代わりに死ぬと祈ると病気が治った。