名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

金は人間を変えてしまう

宝永4年12月25日。
馬廻300石米倉喜左衛門が改易となる。
使いは目付牧野伊左衛門・供番永井藤左衛門。
以前からとても行いが良くなかった。
家ではいつも4,5人の女に踊り、歌わせ、踊りに女遊びが絶えなかった。
昨年秋菰野へ湯治に出かけたが、召仕の女2人を連れて行った。
この女は密かに京から呼び寄せていた。
2人の内1人は悩み事があって一緒には行かず、後から婆が付いて菰野へ出かけていた。
菰野ではこの女2人とその土地の遊女を呼び寄せ、毎昼夜踊りを楽しんでいた。
神宮寺の智海と永安寺の末寺で禅宗永安寺の隣にある性雲寺もこの会に出ており、どうしようもなく度を外れた者どもであった。
喜左衛門は女2人が妬むのを面白がって、遊女と戯れた。
このため2人の内1人が遊女にちょっかい出したのでつかみ合い、張り合い、大騒ぎとなった。
菰野中の噂になってしまい、暇を頂いた期間全てを菰野で過ごせなくなり尾張に戻った。
八事の近所で喜左衛門の持山があった。
この側に仏智院という寺があった。
喜左衛門はその山へ出かけ、召使の女などもたくさん連れて行った。
仏智院でも歌い、踊り、泊まることも度々あった。
このため仏智院は追放となった。
神宮寺と性雲寺も追放となった。
犬御堂の住持も米倉とかかわって追放となった。
喜左衛門は金持ちで、改易の時も米100俵あまりを蔵に積み上げていた。
その他のものをいちいち記することはしない。
喜左衛門の従兄弟米倉小平次が死んだ時、喜左衛門の指図で召仕の道具を調べることがあった。
小平次を育てた婆がおり、以前小平次紋付の小袖を貰っていたのを見つけ、怪しんで取り戻した。
婆は大いに怒って恨み、罵って3年はもたないと呪いながら立ち去った。
喜左衛門の伯父米倉市太夫は米倉院といった。
古渡の小庵に位牌があった。
この庵は米倉家の金で面倒をみていた。
小平次が死んだ後、喜左衛門からは斎米(寺に施す米)さえも遣わさないので度々困って訴えたが、喜左衛門からは返事もなかった。
このため米倉院の石塔を喜左衛門のところへ捨て、立ち退くよう言ったが聞き入れなかったので、少し前に米倉院の石塔を打ち転がし、詳細を書き置いて立ち退いた。
桜木助之右衛門は不行跡のため改易となる。
押買(買占め)などを行ったと云々。
初めは宮内という小姓であった。
今までは5人扶持であった。
熱田奉行広瀬介右衛門が中風で死ぬ。
手代2人が追放になった時の急死であったので、自害などと色々噂があったが嘘であった。
熱田奉行手代の2人が追放となる。
2人は永らく手代を勤めていたが、贅沢に溺れ、分不相応な頼母子などを行っていた。
町人にも頼みごとをいろいろとしていた。
近頃、熱田大石灯篭が建立される。
作事奉行河村丹左衛門のところから入札し、53両だと。
この金は神領金から出る。