名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-02-13から1日間の記事一覧

あるとこには金はある

宝永4年12月25日。熱田の社人が神領金3000両ほどの拝借が叶う。何10年来の古い借金を全て返済すると云々。田嶋丹波・馬場左京は300両ずつを利息なしで30年で返済するはずである。その他身分の軽い祢宜に至るまで拝借する。一昨年巳酉3月イ…

これもコネ

宝永4年12月30日。酉半(午後6時)、南の方で大きな地鳴りがする。雷のようで3度鳴ったとも。奥田主馬組に外岡清兵衛という者が150石で決着する。これは公の愛妾いくよの父で江戸の赤坂あたりでところてんを売ったり、町料理をしていた者であった…

年末も気が休まらない

宝永4年12月28日。辰刻(午前7時)、地鳴りがする。

年末は今でも物価が上がる

宝永4年12月27日。近頃、米の値段が上がり、1両で7斗4、5升。巳半(午前10時)、少し地震がある。その後また揺れる。28日の明け方前に1度地鳴りがする。

金は人間を変えてしまう

宝永4年12月25日。馬廻300石米倉喜左衛門が改易となる。使いは目付牧野伊左衛門・供番永井藤左衛門。以前からとても行いが良くなかった。家ではいつも4,5人の女に踊り、歌わせ、踊りに女遊びが絶えなかった。昨年秋菰野へ湯治に出かけたが、召仕…

米よりも現金

宝永4年12月24日。文左衛門は米3石を売払う。1両で7斗9升。その内1俵はもち米で、1両で7斗5升。

本当になかなかおさまらない

宝永4年12月23日。夕方と深夜に2度少し地震がある。

さあ年末に向けて資金繰り

宝永4年12月22日。文左衛門は巳(午前9時)から頼母子会のため八郎右へ出かける。酒・吸物を頂く。

眼医者さんでしたね

宝永4年12月21日。馬嶋松沢が20石を召し上げられて30石となり、修理宅で小普請を仰せ付けられる。

年末に向けてまた余震が

宝永4年12月18日。巳半(午前10時)少し地震がある。亥(午後9時)頃、地鳴りがする。

伯父もいい迷惑では

宝永4年12月17日。小川庄右衛門が逐電する。蔵米の返済金は残らず清算していた。平田屋を始め名古屋あちこちの金持ちから金2、300両、あるいは4、500両借り集め、都合2000両借金して逐電する。平田屋新八は250両、惣介は150両貸して…

何てこった

宝永4年12月16日。昨夜、松村養元は病気のようで寝ていた。今朝、起き出してこないので起こしに行くと死んでいた。

人を働かせるには飴と鞭

宝永4年12月15日。今井甚左衛門が末森の蔵の作事での褒美として銀3枚を下される。大工や手代までにも下される。

藩の台所も火の車

宝永4年12月14日。文左衛門は平岩五右が量った仲間の口米を差し上げる。文左衛門は5俵で車賃は160文だった。

日本人は昔から自殺が多い

宝永4年12月11日。摂津守様(松平義行)武具奉行吉田弥五右衛門が乱心し、自殺する。

久野杢太夫が佐藤金左衛門を預かってましたね

宝永4年12月9日。文左衛門は武右へ口米帳の印をもらいに行く。百姓を呼び、口米の俵5つを調える。佐藤金左衛門が評定所東屋敷へ移る。来年1月に久野杢太夫が江戸へ出発するためと云々。

安心して寝ていられない

宝永4年12月8日。亥刻(午後9時)地震がある。夜中、東と北の間から地鳴りがすること8,9度あった。

これはただの風邪ではないな、今のインフルエンザか

宝永4年12月6日。昼前、少し地震がある。朝岡甚五右衛門は先月28日に江戸へ発つはずであったが、仕事で間違いがあり、遠慮・引き込んでいた。3日に片が付き、この朝尾張を出発する。熊谷与兵衛の家でお叱りにあい、お赦しにもあった。近頃、風邪がひ…

余震が続く

宝永4年12月5日。亥刻(午後9時)、地震がある。

地震よりも金

宝永4年12月4日。昼前、少し地震がある。深夜も同様の地震がある。その後少し地鳴りがする。文左衛門は巳(午前9時)から一郎左の頼母子会のため八郎右へ出かける。佐久間十兵衛へ落ちる。吸物・酒などを頂く。

やはり富士山の噴火が関係しているのか

宝永4年12月3日。辰半(午前8時)過ぎ、地が震え、少し揺れる。午8刻(午後0時半過ぎ)、激しく地が震え、少し揺れる。大地震以来これほどの知の震えはなかった。

やはり富士山の噴火が関係しているのか

宝永4年12月3日。辰半(午前8時)過ぎ、地が震え、少し揺れる。午8刻(午後0時半過ぎ)、激しく地が震え、少し揺れる。大地震以来これほどの知の震えはなかった。

その点文左衛門はのんきなもの

宝永4年12月2日。昼過ぎから文左衛門は武右へ出かけ、源右・元右・善兵と口米の帳面を確認する。成瀬隼人正ははなはだ困窮していた。35、6匹の馬を15匹に減らすと云々。家中へも5分ならし(5%)で100石について5石ずつ与えると云々。出雲守…

何でそんなことをしたのか

宝永4年12月1日。近頃、間嶋松沢に尾張に戻るようにとの命令がある。このことは近頃町奉行松野河内守の家で申し渡し渡された。その方のことは内々に公儀にお目見を仰せ付けられるところであったが、不届きがあったのでお目見は叶わなかった。公儀側衆の…

宝永4年12月の天気です

宝永4年12月1日。薄曇。宝永4年12月3日。午刻(午前11時)、黒雲が一筋坤(南西)から艮(北東)に向かって橋を架けたようにたなびいたと天野信景が話していた。宝永4年12月4日。今朝、薄曇。東の黒雲は見えなくなる。5日も同様で、その後も…