名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

ケチで乱暴者とは困った奴だ

宝永4年6月6日。
馬廻日置甚左衛門が改易となる。
兄篠岡佐源治も江戸で逼塞となる。
昨年冬に建中寺に入った盗人の中で甚左衛門の町屋に住む者がいた。
しかし、町屋の名代は清左衛門という者にしていた。
町へ預けられた時、清左衛門から番を付けるよう言われたが、実はこの町屋は甚左衛門殿の家であると言った。
甚左衛門に言うと、番を付けるにはいろいろ無理があると言った。
番人の代金はしぶしぶ甚左衛門から出すことになったが、甚左衛門は町から番を付けるといろいろ費用がかさむと思った。
このため甚左衛門のところから番人を出して番をすることにしたが、これもよくないとまた町から番を出すように頼んだ。
つまりのところ、甚左衛門がとてもケチであったことが事の始まりで、その上に乱暴、身勝手、理不尽な生まれつきでもあった。
この間いろいろと込み入ったことがあったがそれは略す。
地主の自然院とも諍いがあった。
自然院は詳しくこれを寺社奉行に報告していた。
その後寺社奉行から命令があり、所からきつく番をするように、役所からの指示がなければ番は代わらないようにと云々。
また甚左衛門から人を出して番をするから代われと言ってきた。
それに応じなかったので甚左衛門自らが鳶口などを持たせ、兄佐源治が足軽を召し連れて番人のところに出向き、立ち去れと言った。
しかし、役所への届がなければ代わることはできないと言うと、聞き入れず、理不尽にも番人を棒で叩き出した。
これらの暴挙で改易となる。
妻は離別するが、鈴木伝太夫の姪なので引き取る。
清左衛門は諸士を相手に不届きなどあったので追放となる。
自然院地子庄屋半七・三右衛門は役所から申し付けられた番人を断りもなく代えたので戸を縛る。