名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

弥次右衛門と若尾留右衛門の関係がわからない

宝永5年8月24日。先年から自ら是トと号した岩下又左衛門がこの夜また逐電する。
この夜の番人は、夜は尾崎忠助・昼は大久保源左衛門・夜は大田藤右衛門・夜は田島儀兵衛・昼は都筑理左(右)衛門であった。
28日に小頭に報告したのは、24日は1日中牢を新たにこしらえるため大工4人がやって来おり、しきりと叩いたりして音がしていた。
この音に紛れて居所の畳を上げて板をはがし、深夜に板をはがしたところから縁の下へくぐり、西の雪隠の不浄口から逃げ出し、西の垣をくぐって外へ出たと云々。
実はそうではなく、番人が酒を飲んで酔っ払って熟睡する間に前の戸をそっと開け、入口の戸も開けて草履まで履いて出て行った。
あるいは番人の鼻紙袋と脇差を差して逃げ出たとの噂もあった。
まだ牢が出来上がっていなかったので、最初の場所に置いて昼夜番をしていたが、油断し過ぎにもほどがあった。
2度までも間も置かずに取り逃がすなど今までなかった。
伝左衛門・又左衛門の親類など誰もすぐには金を出さず、そのためもめて牢の出来上がりが遅れていた。
板を外したのは小頭衆の見分のためで偽りのものであった。

この夜、若尾留右衛門が逐電する。
船越安兵衛と共謀して書院番新番の月々の扶持方手形偽判を作り、町人を取次にして建部献ノ右衛門の金を借り、月々25日に金を戻していた。
しかし明日は戻すあてがなかったので逐電する。
安兵衛は人をだます、女を預ける(当時女を預ける場合届けが必要だった)、博奕や不行跡は言い尽くせないほどであった。
弥次右衛門は内緒安兵衛を尋ねると、この金を出さないのであれば建部のところから蔵奉行に報告が行くと大変なことになると。
弥次右衛門は当惑し、この後月々返済する。
その他にも借金が25、6両あった。