名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

また嘘をついてる

宝永5年9月11日。
未(午後1時)過ぎ、伝左衛門は他所へ尋ねに出かけるようにと申し渡しがあったけれど、昨日の書付で言われた返事の書付を差し出して出かけるように云々。
伝左衛門が出した書付の大意。
24日、大工が4人やって来て、牢を作るため作業するうちに板を外して置いてていた。
また8ツ(午前2時)頃言葉をかけたが、その後夜明け頃まで覗いたり、言葉をかけることはなかった。
伝左衛門はじめ家の者まで全くお粗末で、迷惑をかけたと思っていると云々。
文左衛門が思うには、最初又左衛門が乱心した際は平沢九左衛門・中根小右衛門に御預けとなり、2人が死んだ後は都筑助六のところに引き取り、御預けとなった。
助六と又左衛門は重徒弟(いとこ?)であった。
又左衛門の伯父平沢清介にも御預けであったが、他国へ出かける仕事があったので引き取らなかった。
横内半兵衛には縁遠いけれ御預けと云々。
助六のところに又左衛門を置いたが、この3人に御預けとなったのは、先年助六に御預けとなった時の老中からの彦兵殿に渡された書付で明白であった。
文左衛門もこの書付を直接見ていた。
しかし、今度は半兵衛に尋ねに行けということはなかったはおかしなことであった。
半兵衛と又左衛門も重徒弟であった。
ただし、先年又左衛門母のところへ半兵衛は婿に入ったが、又左衛門母が死んでまた戻っていた。
もっともこのことは上の者は知らないことであった。
今月、24日の昼夜の番人を書き出すようにと云々とのことで書き出す。
昼は都筑理右衛門・大久保源左衛門、夜は田島儀兵衛・尾崎源助・都筑理右衛門。
このように書き出したけれど実は夜は儀兵衛と尾崎忠助と大田藤右衛門であった。
忠助の代わりに源助、藤右衛門の代わりに理右衛門としていた。