名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

自分のことに又左衛門のことにと大忙し

宝永5年9月10日。
巳(午前9時)から段之右・三郎左が文左衛門のところにやって来る。
義兵は理右が先日出発となったのでやって来なかった。
伝兵衛・平右衛門のほか惣百姓、確認のために組頭の勘右衛門百姓孫左衛門・次郎兵百姓伝左衛門を呼んで申し渡し、庄屋2人には受状に判をさせる。
吸物・こはめし・酒を出す。

理右が尋ねに出かけるにあたって、小頭衆の考えで伝左・儀兵のほか仲間で金2両を集め、小頭から理右へ旅費の足しにと遣わす。
小頭は2朱ずつ、平組は鳥目(銭)280ずつ。
申(午後3時)過ぎ、理右が出発する。
岐阜・加納・佐和山そのほか美濃のあたりと云々。
文之右衛門は気分がすぐれないと出かけなかった。
戌(午後7時)過ぎ、源右衛門が呼びに来たので文左衛門は平左と出かけ、酒や食事を頂く。
この日の夕暮れ頃、主水殿から彦兵殿を呼びにやって来て別紙の書付を渡されたので、伝左衛門はこの考えを受けて書付を出すようにと云々。
城代組都筑伝左衛門に御預けの年乱心した岩下又左衛門のことでの申し渡しの覚。
この又左衛門が2度までも板敷を外して逐電したのは、道具なども無いところでおかしなことである。
家の者も昼夜交代で詰めていたのに、逐電した際にはいなかったと思われる。
そうであるならば又左衛門を置いた場所にはいつも詰めていたわけではなかったのか。
今度の逐電の前、夜8ツ時(午前2時)頃外から声をかけると返事があったが、夜明けに覗いてみるといなくなっていたと伝左衛門が差し出した書付には書いてあった。
この通りであるならこの間に逐電したものと思われる。
板敷をも外すほどのことであったので注意する必要があったのに、伝左衛門始め家の者も見廻らなかったのか。
このことを尋ねて報告するよう彦兵衛へ申し聞かされた。
彦兵衛へ報告があり次第報告するように。
これ以下の文は秘密にして伝左衛門には見せなかった。
伝左衛門には他所へ尋ねに出かけるようにと申し渡す。
以上。