名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

飛んで火にいる夏の虫

宝永5年10月22日。
近頃、梶又左衛門が死んでしまう。

少し前、飛騨守は在所より戻られ、気分もよかったので6日に出仕する。
帰宅後スメという名の13歳になる竹腰民部妻である嫡女が死んでしまう。
少し前から疳(ひきつけ)の病であった。

坂下大光寺借地に住む都筑元右衛門召仕鬼頭園右衛門は以前元右衛門の母と関係を持っており、その他にも道に外れた行為があったので永らく罰しようとしていた。
近頃しきりと切ってしまおうと考えていた。
猪飼唯四郎に頼んで捕らえ、刺殺しようとしたがそれもあんまりなので、山田彦内と妻木小左衛門子に頼んで昨21日の晩に出かけるはずであった。
しかし21日の朝円右衛門が坂下の自宅から元右衛門のところにやって来て、自分に暇を出すとの噂があるが言語道断とヘンハイフシ(ママ)、その上脇差を抜いたところを元右衛門の家来どもがもぎ取った。
元右衛門が切りつけると物置に入って倒れたところを引き出して殺させた。

少し前、奥田主馬の母と主馬若党若山元右衛門が密通し、それが露見した。
このため三輪七左衛門が暇を出させた。
しかし夜ごと密かにやって来て関係を持つと云々。
主馬母は本重町と大津町の間ふと(太)物屋(綿織物などを扱う)小間物売彦兵衛と兄弟であった。
小関定右衛門というのは彦兵衛の子で母の甥で、主馬のところに厄介になっていた。
近頃聞いたところでは、父の名は是休という三輪七左衛門の妹ふじという女は公(四代吉通)の寵女であった。

少し前、佐藤勘治郎鎌と岩本義兵衛が殿の考えで試合をすした。
岩本はわざと負けたと云々。
義兵衛は初め近習衆で、勘治郎の鎌の弟子であったと云々。