名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

やっと金左衛門の裁きが終了です

宝永5年閏1月18日。
昨年春に行方をくらました熱田大宮司の妻を山澄大膳・高木志摩・間宮造酒・毛利治部右に探し出せとのことであったが未だに見つかっていなかった。
この日4人にもう探さなくてよいと仰せ渡しがある。

評定所東屋敷で佐藤金左衛門が切腹となる。
足軽頭津田平次右衛門の預りであったので、切腹の道具などを平次右衛門が用意する。
介錯も平治右衛門足軽が務める。
使いは舎人甚五右衛門、大目付河村兵蔵、目付加藤忠左衛門。1
3歳になる金左衛門子孫三郎は佐藤惣兵衛座敷の庭に畳を敷き、その上で切腹する。
いろいろとだまして死ぬことを隠して首を打つ。
介錯は従弟の丹羽勘左衛門であった。
孫四郎は使いを請けたとき上下を着用する。
惣兵衛が従い、切腹の時も惣兵衛が付き添う。
使いなどは金左衛門と同じであった。
前日、惣兵衛小頭2人から明日仕置を仰せ付けられる旨の内意があったが、切腹ということは知らせていなかった。
孫三郎への仰せ渡しには、父金左衛門には博奕のためにかなりの借金があり、人に迷惑をかけていた。
この重罪ならば斬罪であるところ、切腹を仰せ付けられた。
このためお前も切腹と云々。
3ヶ条(大犯)であった。
金左衛門の妻と娘1人は共に城下から追放となる。
金左衛門の召仕は1人だけ残り、まだ東屋敷にいた。