名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-01-10から1日間の記事一覧

これも名誉なこと

宝永4年4月29日。鎌倉光明寺が熱田に泊られる。花頂山知恩院白誉上人が昨年秋に亡くなられ、その跡を仰せ付けられた。

礼儀は大切

宝永4年4月25日。芝山外記が熱田へ向かう。これは日光への礼幣使が熱田に泊られるため。毎年宰相は日光へ行かれ、大樹(将軍)から銀100枚と太刀を下される。

この人がお泊りになるよって宿場に立てる札のこと

宝永4年4月22日。但馬様(松平友著)奥さまの関札(立札)。五十人衆林・小田切が尾張を発ち、京に向かう。

最後の箸は詐欺みたいなもの

宝永4年4月18日。蔵奉行池田孫助が近頃勤めを辞めること願い出るが、切米、扶持方を差し出すことはなかった。このため江戸から書状がやって来て、切米などを召し上げる。しかし、長い間勤めていたので新たに3人扶持を下されると云々。近頃、五十人目付…

今年も東照宮祭

宝永4年4月17日。祭礼が例年通り行われる。辰(午前7時)過ぎに始まり、未3刻(午後1時半過ぎ)まで。

何年かに1度は山車も新しくするんですね

宝永4年4月14日。伝馬町の弁財天・京町の小鍛冶は新しい車であった。巳(午前9時)頃、町奉行へ初めて曳いていく。人々が群れ集まる。揚屋の出家を寺社奉行両人・十人衆両人で詮議する。

何という親だ

宝永4年4月12日。この夜、井上文右衛門の門外西寄りに男の子が捨てられていた。文右衛門は番に出ており、召仕が聞きつけて亥刻(午後9時)に中へと入れた。病気のようであったので治療するが、4、5日過ぎて死んでしまった。

これぞ役人の鑑

宝永4年4月11日。この春、国奉行からの用務があった。濃州上古井村へ足軽3人を遣わした。百姓から賄金1分ずつを足軽の袖に入れた。足軽は請け取らずに帰り、国奉行に報告した。奉行から年寄衆に報告し、江戸へと伝わった。百姓を呼びよせ、水責めの拷…

文左衛門、もう少しで出火元

宝永4年4月5日。五味弾右へ文左衛門は出かける。内詰手代田丸領右衛門に出会い、篠岡勘平のことを頼む。同役神部定介にも頼んでくれるように言う。これは平兵殿宗旨一札(宗門改)のことで。同15日に勘平の願書を北方村の組頭弾右へ持参する。その文に…

輿入れも大変だ

宝永4年4月2日。この度、但馬様(松平友著)へ生(イク)姫様が輿入れ。江戸へ向かうためお迎えは京都へ馬廻戸田孫兵衛・鳥居五兵衛、江戸へは深沢新平・増田六郎兵衛。医者は京都へは住山仙庵・外科の本多林左衛門、江戸へは太田道周・並河芳設。五十人…

宝永4年4月の天気です

宝永4年4月1日。晴。深夜に雨が降る。宝永4年4月2日。雨が止み、曇る。宝永4年4月3日。快晴。宝永4年4月7日。曇。昼過ぎ、少し雨が降って止む。その後、薄曇り。夜半に雨が降って止む。宝永4年4月8日。曇。辰(午前7時)から晴れる。宝永4…

処罰が目白押し

宝永4年3月27日。建中寺に昨年盗みに入った4人が獄門となる。胴は様物となる。この他は追放となる。酒屋清六は戸を縛る。高橋政右衛門ならびに女の塩漬けになった死体はともに磔となる。水野惣右衛門歩行の者は斬罪となる。夫のある女の面倒をみた罪で…

この夫婦には何が

宝永4年3月25日。九郎宅で平田半右衛門の逼塞が許される。近頃、久野杢太夫歩行の者で久屋で家を借りていた石原庄左衛門が女房を叩き殺す。

なかなか立派なお屋敷です

宝永4年3月24日。役所帰りに勝蔵へ出かけ、酒や食べ物を頂く。そこから山城守中屋敷を見物する。斎藤喜平太の造った仮山(築山)であった。幽谷・湛水・青竜石・猿飛岩などもある。澄心堂の額ならびに序文は万治子年の陳元賛であった。乾(北西)の大榎…