名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

文左衛門、もう少しで出火元

宝永4年4月5日。
五味弾右へ文左衛門は出かける。
内詰手代田丸領右衛門に出会い、篠岡勘平のことを頼む。
同役神部定介にも頼んでくれるように言う。
これは平兵殿宗旨一札(宗門改)のことで。
同15日に勘平の願書を北方村の組頭弾右へ持参する。
その文には。
文は文左衛門が領右衛門と相談して書いて遣わす。
願い奉る事。

一 私の親で篠岡平兵衛という者は今まで親類のところにいたけれど、年も取ってきたのでこの度私のところに引き取り、一緒に住んで養育したい。この平兵衛のことはどこからも異論はない。朝日文左衛門殿からは宗門のことはもちろん、その他のことも請け負っていただき、報告の書状も差し出していただくので願の通り叶えていただきたい。以上。
宝永4年亥4月 勘平印判。
五味弾右衛門様。
右の勘平が言うことは相違ないので、仰せ付け下さるように。以上。
北方村庄屋。
五味弾右のところへ文左衛門から遣わした書状。杉原紙。
加えて平兵衛のこと、鉄砲は所持していない。以上。
一筆啓上。篠岡平兵衛という牢人は支配所羽栗郡北方村で勘平という者のところに住まわせたい。この平兵衛のことは宗門毎年改め、私のところに寺手形を取り置いている。その他諸事私のところで請け負います。よろしくお願いいたします。恐惶謹言。
4月 花押。
亥刻(午後9時)、文左衛門はいつもの通り庭の火を見廻ると、少々焦げ臭く、その上大釜の下に枯れ草を掃きこみ、いっぱいに詰めてあった。
この日は釜の下を焼いてもいなかったので手で試すと、火気もなかったのでそのままにしておいた。
その南のくど(竈)では火気が残っていたので水を4、5杯かけて寝ると、急に竹のはじける音が2、3回したのでう不審に思い、帯がほどけたまま出てみると奥の間へと火が燃えていた。
これはと急いで走り出ると、釜の下の枯れ草が燃え上がっていた。
染女(そめ?)が文左衛門より先に裸で起きて、水をかけていた。
側に燃え移るようなものがなかったが、釜の下にどれほど水をかけても煙はおさまらなかった。
この間に召仕の男女が出て来て、水を汲んではかけた。
文左衛門も釜の下を熊手でかき出すと、奥の枯れ草が燃えてくすぶっていた。
このため念入りに引き出して消した。