名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

犯罪者の処罰ラッシュ

宝永3年11月25日。
辰半(午前8時)過ぎ、文左衛門は瀬左へ出かける。
頼母子会で1両1分は文左衛門が得て、10両は瀬左が得る。
酒などを頂き帰る。
日が暮れて文左衛門は半左へ出かける。
そば切・吸物など頂き、酒を気持ちよく吞んでいると火事とのことですぐに彦兵へ出かける。
鉄門へ出られたとのことで文左衛門もそこへ行く。
しばらくすると、遠方なので帰ってよいとのことで平左・段之右・政之右・伝太・五右と三ツ蔵の北の大榎の蟠根(からみあった根)に登って見物する。
亥半(午後10時)に帰る。
関新左衛門惣領の書院番十郎右衛門が書院番小頭小山十郎兵衛に預けられる。
初め六郎様、今は小普請の次男弁右衛門が坂崎勘左衛門に預けられる。
渡辺新左組真鍋市太夫が新左へ預けられる。
浪人の新番林庄兵衛次男分五右衛門が評定所揚り屋に入る。
いずれも近藤政之右衛門と一緒に博奕をと云々。
昨夜、出雲守様(松平義昌)が武兵衛の子分浅黄の間小頭近藤彦の右衛門を井上七郎兵衛に預けられる。
馬廻ならびに足軽が番をする。
牧野の母と妻は佐治に預けられる。
近頃、大田庄右衛門を押し込め置く。
絵書森井藤栄(イ永)の子森井庄蔵を庄右衛門ははなはだ溺愛していた。
去年野間林庵が世話をして津守様へ召し出されたのを名惜(ナゴリ)を惜しみ、江戸へ遣わさず、病気と称した。
林庵から度々催促があってようやく江戸へ向かうが、庄右衛門がしきりにぜひ暇をと言って少し前に暇を申し上げていた。
林庵は大いに驚き、知らなかったと酒井金と相談の上、江戸へ申し遣わした。
庄右衛門はこれを聞いて怒り、林庵を刺殺しようとした。
これゆえのこと。
後に和して庄右衛門が牢から出て、元のごとく。