名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-04-01から1ヶ月間の記事一覧

こんなに早く渡さないといけないのか

宝永6年3月18日。文左衛門は役料手形を代金6両の予定で理右衛門に遣わす。金は来月20日までに受け取るはずであった。

節約、節約と言う割には

宝永6年3月17日。尾張の御殿の入札のため平田半右衛門が京へ出発する。(27日に帰る。)江戸の者に札が落ち、金250両ばかりと云々。

預けられた2人は何だったのか

宝永6年3月15日。夜、西鉄門外の土橋の石垣が崩れる。一昨年膨れた場所であった。戌半(午後8時)頃、女1人を曲淵仁左衛門北ノ町相応寺前から追いかけて切る。女の大きな叫び声がした。刃が切れなかったのか傷が多かった。終には仁左衛門門前北寄りで…

騒いでいいんだぞ

宝永6年3月9日。酒の販売を許すとの廻文が町中へある。ごぜ・座頭渡世の稽古に鳴物・音曲が許される。町では三弦などを引く。

婿いじめってことか

宝永6年3月8日。この朝、星野半之右衛門が須貝惣右衛門のところで自殺する。惣右衛門は舅だったので妻と子ども2人が行っていたが、この2人はいずれも妻の子どもではなく、召仕から生まれた子であった。この妾と2人は衣服がなくて奉公に出る様子もなく…

案外気が弱い

宝永6年3月7日。両小頭から先日の三九郎・ほらを今年から宗門から除くことを新左衛門殿に話が通り、その上七右に先日の書付を遣わし、宗門から除くことが了承されたとの手紙が来る。戸田五郎兵衛手代の富田庄蔵が自殺する。上松奉行の手代で大久保見町に…

死んでやる詐欺だな

宝永6年3月5日。文左衛門が後苑(裏庭)で山椒を見ると、あんなによく出ていた芽がことごとく干からびて枯れ、色は墨のようになっていた。どうやら先日の厳しい霜が原因のようだった。あちこちでこのようであったと云々。今年、尾張の山椒の実は出来がと…

ここでは文左衛門でなく定左衛門と名乗ってます

宝永6年3月3日。私の知行所中島郡野崎村無高の百姓三九郎と妹は私の百姓であったので毎年宗門帳にも書き入れて確かめてきたが、この1、2年名古屋に奉公に出て、2人とも野崎村には戻っていないので今年から宗門帳から除いてほしいと野崎村惣庄屋ならび…

宝永6年3月の天気です

宝永6年3月1日。快晴。西風が少し吹く。宝永6年3月2日。快晴。深夜、少し雨が降る。宝永6年3月3日。曇。辰半(午前8時)過ぎから雨が降る。宝永6年3月4日。雲が乾(北西)へ流れて行き、巽(南東)の風が吹く。雨は未(午後1時)から止み、申半…

結構時間がかかりました

宝永6年2月30日。この日で文左衛門の蔵の基礎工事が終わる。

これも理由が不明か

宝永6年2月29日。夜丑刻(午前1時)、小見山大助に厄介になっている従弟宮崎半六が、夜咄からの帰りに富田文左衛門を数ヶ所切って立ち退く。源右衛門の辻には血があった。そこから高岳院より大津町あたりには血の跡があった。半六も傷を負ったようであ…

石垣だけでなく建物も工事

宝永6年2月28日。近頃、今井仁左衛門東の薬師坊が逐電する。行いがよくなかった。近頃、城の工事があり、大地震で倒れた平田半左衛門の孔雀門の前の小屋、西鉄門左右の多門を造る。飼殺番所前鈴木弥右衛門の小屋、天守などを修補する。南屋敷今井甚左衛…

人力で運ぶのだから大変だ

宝永6年2月26日。西鉄門前の土橋の石垣修理のため岩崎山から石を切り出す。石の数は400本あまり、免は2尺(1尺は約30センチ)四方、後ろ面は1尺5寸(1寸は約3センチ)、控(奥行)3尺5寸。これを3月10日過ぎから4月10日までの間大道…

隠すにはわけがある

宝永6年2月25日。この度勅使で下られた菊亭内大臣ノ右大将伊季が、帰京の途中で26日に遠州金谷の宿で急死する。50歳で水戸季姫様の弟で中将様・益姫様の伯父であった。病気ということにして遺体は京に戻った。熱田へ使いが来た時も病気ということで…

神に仕えるから善人とは限らない

宝永6年2月22日。この日、二ノ宮社家元方八太夫は乱行のため、寺社奉行で二ノ宮の神主も出て来て詳しく調べられる。

文左衛門ってけっこう義理堅いんです

宝永6年2月21日。この日から文左衛門のところに大工長左衛門がやって来る。八平が釜戸から戻って来た。自圭は昨年冬26日に亡くなっており、このため遣わす予定の金2分も返ってきた。今までずっと使者と金を遣わしてもらったのはありがたいが、もはや…

生活に困っていたか

宝永6年2月20日。八平を釜戸へ遣わす。夕暮れ前、文左衛門の門前を裸で渋紙だけを腹にあてた角前髪(すみまえがみ、元服前の少年の髪型)の男を町人が大勢で縛って連れて行った。相応寺筋東山内善弥のところに入り、古やくわん(やかん)などを盗んでい…

信じていいのか

宝永6年2月19日。又蔵が帰られる。今朝又、金3分を遣わす。この春3度会って3両1分を遣わす。無心などすることのない堅物であった。

人は見かけによらぬもの

宝永6年2月18日。作事を始めてよいとの廻文が来る。夜、味鏡(鋺)村孫左衛門の家に2人組の盗みが入った。孫左衛門の召仕2人が追いかけ、組み伏せて田の溝へ転び落ちた。2人組は持っていた小刀で下から突き、1人は即死、1人は傷が8ヶ所あったが命…

いろんなことが盛りだくさん

宝永6年2月17日。辰(午前7時)過ぎ、文左衛門は源蔵・藤内と熱田へ出かけた。文左衛門は参詣し、そこから築出しあたりへ廻り、尾州西山派正覚寺の談林(学問所)へ寄り、住持と知り合いとなった。寺内本堂の側に霊亀の井戸があった。但馬仲頼へ出かけ…

うーん、たかられてません

宝永6年2月15日。又蔵殿がやって来て、今度奥田主馬の知行所になり、勘平・次郎介の未進米(未納の年貢米)が取りつくされ、はなはだ迷惑していると文左衛門を拝み、雨の如く涙を流した。文左衛門は感激し、小判2両を渡した。

この前まで使えって言ってませんでしたか

宝永6年2月14日。大銭禁止の廻文がある。

困るとこのお金が出てくる、のんきなもんだ

宝永6年2月11日。熱田千秋一学宅が大破し、自力ではどうしようもなかったので、奉行へ事情を説明し、神領金の中から修繕費用を出す。

そりゃ意地があるますよ

宝永6年2月9日。この日から文左衛門は蔵の基礎を築く。日用が3人、召仕が2人。千秋一学弟の間宮八重ノ丞が若宮の神主となる。八重ノ丞は幼少であったので、後見は伯父野田伊織に内密に頼むが出て来なかった。伊織は今は隠居し、好閑と名乗っていた。一…

穏便も終わりですかね

宝永6年2月6日。作事を始めてよいとの廻文がある

御蔵早証文と原文にはあるのですが米を追加してあります

宝永6年2月5日。この日聞いたところでは、蔵早米(早稲)の証文では買留は4分、値段は1両で8斗2升。

宝永6年2月の地震です

宝永6年2月20日。未(午後1時)前、地鳴りがする。宝永6年2月21日。子8刻(午前0時半過ぎ)、大きな地鳴りがする。少し揺れる。

宝永6年2月の天気です

宝永6年2月1日。曇。未(午後1時)前から雨が降り、夜はジメジメする。深夜には雨が止む。宝永6年2月2日。晴れるようで時々日が差す。辰半(午前8時)から晴れ、西風が1日中吹く。宝永6年2月3日。申(午後3時)前から曇。夕暮れ前からわずかに…

門前払いか

宝永6年1月29日。朝比奈宇右衛門は使いとして近頃京へ向かったが、穏便のため準備が整っておらず、来月中旬また来るようにと云々。この日名古屋に戻り、留まる。

あちゃー

宝永6年1月28日。昼、昨年崩れた文左衛門の西の舎塀が、又北へ2間(1間は約1,8メートル)ばかり崩れる。