名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-04-18から1日間の記事一覧

門前払いか

宝永6年1月29日。朝比奈宇右衛門は使いとして近頃京へ向かったが、穏便のため準備が整っておらず、来月中旬また来るようにと云々。この日名古屋に戻り、留まる。

あちゃー

宝永6年1月28日。昼、昨年崩れた文左衛門の西の舎塀が、又北へ2間(1間は約1,8メートル)ばかり崩れる。

人の繋がりは大切ですよ

宝永6年1月27日。近頃、御下屋敷奉行桜井市左衛門は願いの通り役を解かれことが、中条主水で申し渡される。小普請にもと仰せ付けられるはずであったが、永らく勤めており、その上泰心院が心やすく思われ、お使いになっていた者だったので馬廻りと云々。

2人の間に何があった

宝永6年1月23日。この日から町では下蔀を上げて売買をする。未(午後1時)過ぎ、郷右衛門の弟で19歳の粕谷宇右衛門が小右衛門の5男で21歳のところへ出かける。弁右衛門は自ら出て、路地の戸を開けた。その後、下女が茶を持って行くと2人とも死ん…

あれ、穏便はどうなった

宝永6年1月20日。この日、肴売など声を出して売り歩く。昨日から町では鍛冶屋などが細工を始める。この夜、都筑伝左衛門より勢州から帰るとの手紙が来る。

やはり大騒ぎ

宝永6年1月16日。昨日申(午後3時)過ぎ、文左衛門は平左とともに武右へ出かける。今は穏便の時期であるので伝左衛門も早々に帰宅するだろうと云々。田島儀兵衛も務めの者が窮しているので早々に番に出るように云々。

将軍様の葬儀となれば大変だ

宝永6年1月15日。当地維摩院へこの日の日付で江戸から状が来る。50石以上の御朱印ならびに独礼(儀典の際の寺格)の衆は、納経のため2月11日以前に江戸へ下るように。一向宗聖徳寺も先例の通り諷経(ふぎん、読経)に下るようにと云々。諸宗御朱印…

また、はだか祭の神男を拉致

宝永6年1月13日。儺追(なおい)は清須の馬口労を捕らえる。とても貧乏で乞食に紛れるほどの者であった。昨夜半から目付は城に集まる。これは将軍の他界で一文字(早飛脚)が来たためである。今朝から町中下蔀を下ろし、ひっそりとする。夜中に穏便の廻…

また穏便にということです

宝永6年1月12日。熱田二の鳥居の東の小池に女を殺して沈めてあったとこの日廻文がある。丑(午前1時)頃、町々へ穏便ノ触れがある。町奉行の足軽が通ったので盗人がうろたえ、盗んだ物を捨てて逃げようとしたのを捕らえて牢に入れる。盗人は杉村の者で…

あの生類憐みの令は誰もが迷惑していた

宝永6年1月22日。役人中へ仰せ出された書付の写し。一 生類あはれみのことは先代の考えの通り、続ける考えである。しかし、このことで下々迷惑しているとも聞き及んでいる。この後、生類のことで下々が困窮するような政治は行わず、間違いでの罪人も出さ…

あの将軍綱吉が亡くなった

宝永6年1月10日。大樹(将軍)が亡くなる。年は64歳。昨日、酒湯を懸られる。今朝辰の刻(午前7時)、女中の膝を枕に急に亡くなる。館林におられた時から瘡毒(梅毒)で、この度は瘡毒の者が疹を煩うと皆死んでしまう。

見つかりませんね

宝永6年1月8日。今朝、都筑伝左衛門が伊勢路へ出発する。

逼塞期間は減給ってことか

宝永6年1月6日。城の作事・修復が江戸から許される。5ヶ年の間で出来上がるはずと云々。取田次郎左衛門逼塞を許され、出仕する。昨年冬の切米は受け取らなかった。朝倉忠兵衛地方200石、田中宗円150石、村瀬幸介100石、諏訪部源右衛門150石…

本当ならイカンでしょう

宝永6年1月5日。近頃、足軽頭兼松善蔵が尾張に戻って来た。乱心の奥田辨右衛門と柴田忠太夫を預かって戻って来た。家まで送り届けるはずなのに、弁右衛門を弟に熱田で渡したとの噂があった。

弾右衛門ってちょっと面倒な奴では

宝永6年1月2日。永安寺肴屋の亭主清右衛門が貧しさのため腹を十文字に切って死ぬ。町への支払いは正月5日であった。昨日、大津町下に住む成瀬内膳明組の御宿弾右衛門が大津町下で馬でやって来る生駒因幡に出くわした。道がよくなかったので片側によける…

宝永6年1月の地震です

宝永6年1月2日。未(午後1時)前、少し揺れる。宝永6年1月7日。辰半(午前8時)少し地鳴りがして地震がある。申半(午後4時)、大きな地鳴りがする。宝永6年1月8日。夜明け前、地鳴りがする。宝永6年1月10日。深夜、地鳴りがする。宝永6年…

宝永6年1月の天気です

宝永6年1月1日。晴れて寒い。朝に間は薄曇。氷柱の長さは尺(1尺は約30センチ)あまり、草木では玉を垂らしたようであった。これを木氷(樹氷)と言う。(塵点録で述べる)宝永6年1月2日。快晴。宝永6年1月4日。連日、寒さが厳しい。剃刀を研ぐ…