宝永6年1月2日。
永安寺肴屋の亭主清右衛門が貧しさのため腹を十文字に切って死ぬ。
町への支払いは正月5日であった。
昨日、大津町下に住む成瀬内膳明組の御宿弾右衛門が大津町下で馬でやって来る生駒因幡に出くわした。
道がよくなかったので片側によけると、徒(かち)の者がやって来たのでまた片側によけた。
するとそちら側にも徒の者がやって来て道を塞ぎ、すり抜けて行った。
弾右衛門は誰だと尋ねた。
因幡とだけ聞いて別れたが、因幡がこれを見ていて人を遣わし、弾右衛門の名を尋ね、その上召仕の無礼を謝った。
弾右衛門が言うには召仕の無礼はご覧になった通りである。
自分も名を名乗るべきだが、馬上の使いには名乗りこともないので伺って名乗ろうとと云々。
因幡は馬から降りて言うには、召仕には何なりと申し付けると云々。
4、5日過ぎて弾右衛門は因州の家へ出かけた。
因州はうちわの客がおり、その上気分がすぐれないので会わなかった。
弾右衛門は客が帰るまで待っていると言って無理やり会うことにした。
因州が言うには、歩行の者と歩行頭ともに2人は閉じ込めてある。
15日もしたら厳しく申し付けると云々。
弾右衛門が言うには、この度のことは詫びるので前々のように召仕えさせるようにと。
因州が言うには、それならば命は助け、扶持は召し上げると云々。
弾右衛門はこのこともうまく扱って帰っていった。