名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

いろんなことが盛りだくさん

宝永6年2月17日。
辰(午前7時)過ぎ、文左衛門は源蔵・藤内と熱田へ出かけた。
文左衛門は参詣し、そこから築出しあたりへ廻り、尾州西山派正覚寺の談林(学問所)へ寄り、住持と知り合いとなった。
寺内本堂の側に霊亀の井戸があった。
但馬仲頼へ出かけ、第□子覚ノ進と知り合いになった。ういろう餅を頂き、夕食を頂き、帰りにうどん・吸物を頂き、夕暮れ前に帰った。
家蔵の古書・証文・系図などがたくさんあり、挙げればきりがなかった。
神君の判、太閤の朱印、信長・信雄の下知文・福島太夫正則直筆の状などいろいろと数10通を見た。
享禄2年に越州蒲原住紫雲山真光寺大勧進順海が寄贈したものであった。
狩野和泉が描くものであった。

仲頼が言うには、昨年卯年、熱田の神前に首が白く、糟毛(白毛に黒毛や赤毛の入ったもの)で胸の羽がとくに白い鳥がやって来た。
いつもの鳥が2羽やって来て餌を食べていたが、この鳥と一緒に3羽でやって来た。
2羽の鳥はこの白鳥を追かけ、嫌っているようだと云々。
この年、泰心院様が亡くなった。

この年の頃だったろうか、大宮東廻廊の中の堅い地面に蓬がたくさん生えた。
社家中でこれを取って、目出度いと祝った。

7、8年前のことか、11月に大宮司玄関前で5、6寸(1寸は約3センチ)の太さの筍子1本が生えた。
目出たいと屋敷の中の小祠へ移し育てた。
これを仲頼も見ていた。
それから3年目に大宮司は蟄居した。

俗に二十五丁橋というのは初め土橋であったが、寛永の頃宗花という者が石橋を寄進した。
宗花の文字ははっきりわからず。

馬場右京は下戸でいいかげんであった。
昨年、石橋南の町屋の女が窓からのぞいて笑ったと乱暴にも中に入り、菜包丁で女の顔を少し切った。
そのことで強請られ、5両で手を打った。
その前にも沓石のあたりで刀を差した者と争い、傷などを追わせたので10両で手を打った。
熱田入口東側の餅屋に2両のツケがあり、石橋の南のあんもち屋にも3両のツケがあった。
今年は頭人世話人)であるが、編笠をかぶって隠れるように歩いていた。