名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

真実はわからない

宝永4年8月25日。
夜、鈴木藤入の14になる娘さちを小僧上がりの19になる千介が連れて出奔する。
あちこちへ追っ手をやると、熱田へ向かった追手の若党と鑓持が船番所で帳面につけた者を尋ね調べると似た者がいた。
すぐに小舟で追いかけ、船へと乗り移った。
この時千介は娘を切ろうとする気配であったが、乗り合わせた者を憚ってじっとしていたと云々。
鑓持ちが欺いて言うには間違いなくぬけ参りだと。
金子などはあるのか、家ではたいそう心配しているのでまずは家に戻り、下女などを連れて戻ってくるようにと。
千介は決めかねているようであったが、弁舌を尽くし、参宮のことではいろいろと立腹されているとなだめすかして2人を連れて帰った。
翌26日、千介を斬首にする。
娘は藤入自らが刺殺しようとするのを旦那寺教順寺が衣着せて命を乞ったので尼となった。
一説では藤入の山へ千介を連れて行き、藤左衛門は千介を切った。
千介は若党ではなかったが、刀を差して出奔した。
藤入が文左衛門に言ったのは千介は初めは艶書を度々娘に送ってきたが返事はしなかった。
娘もこのことを隠していて誰にも言っていなかった。
近頃になって千介は自分の心に従わなければ藤入様、藤左衛門様の留守に家内の者を切り倒すと言った。
このため娘は止めることができなかった。
それならば私だけを殺すようにと云々。
それならば夜密かに出てくれば切り殺すと約束して立ち去った。
尾頭のあたりで娘は千介にどうして早く殺さないのかと言った。
千介は上方へ行こうと云々。
娘はそれを聞いて思わず泣きだしだとのを、千介は大声で小唄などを歌って紛らわしたと云々。
文左衛門が思うにはこの通りであるならば密通などないようであるが、あったかどうかはわからない。
藤入はあえて隠したのかも。