名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

最後が汚いなあ

宝永3年10月3日。
五十人目付蘿木定平治は先月28日に名古屋を発ち、三嶋に宿泊していた。
この日の明け方に宿を出発する時になってにわかに鑓持ちを切り殺し、若党には刀傷を負わせ、中間を追い回した。
定平次はすぐに宿に声をかけて荷物を預け、死人を弔うようにと金子を差し出し、自らは駕籠に乗って僕も連れずに江戸へと向かった。
宿では供を付けると言うけれど聞き入れなかった。
しばらくすると駕籠から降り、尾張の方へと向かった。
6日、遠州・懸川領海道で自殺し損ねた。
駕籠の中にいたので近辺の沢田村へ引き取った。
傷ついたことで正気に戻った。
尾張では定平治父小右衛門・弟で弓衆伴内に命じて探させていた。
居場所がわかったので伴内と弟定右衛門の2人が懸川へ出かけた。
検使が切手(証文)を持って守っていた。
三嶋へは五十人目付吉田太一右衛門が江戸からやって来て検視をし、ことが明らかになるまで付き添った。
定平次は尾張を発つ時から様子がおかしかった。
道中では何かにつけ気が晴れないようであった。
三嶋で自分を切ろうとしていると聞きつけてこの如く。
この月28、29日頃、懸川を発ち、11月1日、2日頃に尾張へ到着する。
懸川へは目付上野小左衛門・五十人目付柴山百介・石川九右衛門が11日に江戸を発ち、15日に懸川に到着し、検視を行う。
18日の朝、小左衛門・百介は江戸へ帰るが、九右衛門はことが明らかになるまで逗留する。
歩行衆高木利兵衛が切手を持って懸川へやって来る。
当月下旬に若党と中間は足軽が付いて名古屋へと戻る。
中間には何事もないかのように暇を出す。
若党の傷は重く、2、3日して死んでしまう。
定平治も小右衛門に預けられる。
小右衛門の出費は大変な額であった。
懸川では足軽・中間などが付いていたが、この食事なども小右衛門持ちであった。
あれやこれやと小右衛門は物入りで、宿や宿への礼も大変な出費であった。
三嶋で中間は宿の片隅に隠れていて命が助かった。
その後、出て来て言うには、全然記憶がなく、急に襲われたのでまず身を隠したと。
しかし、逃げることはせず、尋ねられことがあれば子細を話すと。
旦那の荷物などがあったので立ち去らなかったと云々。
人はこれを美徳とする。
一説には明け方前に定平治は召仕を起こすが、時間が早いと起きず、その上暴言を吐いたと。
これが我慢できずに鑓持ちを切り、抱きかかえて止める若党を振り払って切りつけたのは非道だと。
定平治は乱心であったので何事もなく宿を出発するも急にこの如くと。
定平治は2寸(1寸は約3センチ)の千手観音を懐に入れていた。
懸川領でその観音が定平治早く死ぬように、でないとお前のために尾張の親兄弟は厳刑になると言ったと。
このため観音を呑んで自殺しようとした。
日が経って観音は糞とともに出て来た。