名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

一番悪いのは僕のような気がするのですがね

元禄16年5月16日。
蛯江角右衛門の子に猪助という者がおり、少し吃っていた。
様物を仕事とし、父が諌めていた。
2日前、金子の手形を猪助に命じて外へと遣わすと僕が途中で落としてしまった。
今朝食事中に角右衛門がお前はまた失敗をしたと言った。
これは手形を落とした日のこととも。
手形などの大切なものは文箱などへ入れて持たせるものであるのに、そのまま持って行かせるので落としてしまうのだ。
今後のためだと苦々しく説教した。
この僕は猪助とは合わなかった。
この日も少し不届きがあったと猪助は鞘と共に叩いた。
17日に叩いたとも。
少し傷ついたと。
角右衛門はこのことで激しく叱りつける。
精進日(忌日)であったと。
鞘と共に叩いて傷つけるなどとても不届きであるので、自分の前には現れるなと言った。
猪助は勘当されたと悶々とした。
17日に逐電して江戸へ行き、五十人小頭野呂兵左衛門のところへと行く。
ここに留まるも、それが伝わったので面倒なこととなる。
荻原八太夫と連れ立って尾張へと来るので角右衛門は迎えを遣わす。
6月24日、猪助は乱心のようなので角右衛門に預けることにして済ませる。
翌25日に角右衛門は閉門となる。
板締は作事奉行野呂増左衛門が行う。
目付伊原弾蔵が立ち合う。
借家内に10軒、表に1軒あるが、これも釘締にする。
猪助が逐電した日は猪助は17日と言うが、角右衛門は4、5日尋ねてから知らせたので21日に逐電したと言う。
話は合わなかった。
役人も疎かだったと閉門となる。