名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

負傷者の報告を間違えたより、家来が喧嘩した方が問題では

元禄15年9月14日。
留書奉行武井勘右衛門は尾張に戻るため7日の朝に江尻を出発し、先発として挟箱持と、悉皆人を荷物に付けて遣わす。
挟箱持は挟箱がとても重いので軽くしてくれと言うと、悉皆人は言うことを聞かなかった。
それならばコハギ(?)を入れるので金を貸してくれと言ったがこれも聞き入れなかった。
口論するうちに悉皆人を切り倒し、死んだかと思い挟箱を捨てて逃げ去った。
勘右衛門は後からやって来てこれを見た。
悉皆人は深手を負っておらず、親でもいなかったので宿へと戻った。
聞くと傷を負った者の担ぎ賃は10町(1町は約100メートル)で金子8両も取ったと。
勘右衛門は手負いは3人と判断して江戸へと申し送った。
切手(証文)を願い、後でこれを見ると手負いは5人であった。
初めに申し送ったこととは違い、わけがわからなかった。
また申し送るも、お粗末なこととため息をつき、12日の夜衣服を着替え、脇差で腹を突いてうつぶせになって死んでしまった。
翌日辰刻(午前7時)になっても起きてこないので僕ら怪しんで行ってみてこれを見つけて騒ぎ出した。
18日、兄四郎が寄合で願い出て尾張を出発し、江尻へと向かった。
勘左衛門の死体を取り置き、傷を負った者を引き取る指図をするために出かけた。
江戸より検使として目付山田理右衛門、五十人目付山崎源兵衛。