名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2023-09-05から1日間の記事一覧

街道のことは幕府直轄ですか

宝永1年5月30日。今月大樹(将軍)からの命がある。覚。東海道ただし佐屋路とも。一 道中人馬前々から定めの往還においては片道50疋50人までは滞りなく人馬を継ぎ送るように。この人数を越えて必要な人馬は相談の上雇うように。近年往還の輩の人馬は…

人の噂は怖い

宝永1年5月28日。この日文左衛門が聞いたところでは、渡辺久米之丞の母は真鍋茂太夫の姉で色ごとにふけることが甚だしいと。毎日のように必ず出かけ、毎夜亥(午後9時)から子(午後11時)の間に帰って来る。風雨といえども1日も欠かさず。広小路に…

この伝七が火種にならないか

宝永1年5月26日。近頃、金森市之進が死ぬ。津守様(松平義行)衆11歳の子幾之助が今月21日家督を仰せ付けられる。馬廻市之進弟伝七は乱心で預けられていたが、この度、尾張へ連れ戻る。尾張には屋敷がないので、巾下吉村牧右衛門の空家敷きを貸すこ…

芸は人を助ける

宝永1年5月25日。大沢無手右衛門足軽寺田四郎左衛門が曲馬(曲芸)に乗る。とても感心なさると。庭足軽に召し出され、褒美を下される。その後、役もよくなる。

六介さん、結構図太いです

宝永1年5月24日。申(午後3時)頃、山崎半九のところへ小頭から六介の詮議が済み、怪しい点もないので牢屋に人を差し向けて請け取るようにと云々。直ぐに駕籠を遣わして請け取る。六介には全く怪しいところはないので今まで通り仕えるようにと。玄番殿…

昔髷が結えなくなって引退した力士がいたそうな

宝永1年5月21日。小嶋平左衛門、兼松太郎兵衛は願いにより隠居する。太郎兵衛は馬廻組で髪は3筋ほどしかなかった。このため入れ髪(添え髪)をしていたが、髪を結うのは召仕の女のほかはできなかった。この度の使いでは髪の結人がいないからと隠居を願…

養子の願いは成人していないと聞き入れられなかったってことですか

宝永1年5月11日(ママ)。山崎勘兵衛が30日ほど前に死ぬ。初め、泰心院様(綱誠)の考えで中村覚左衛門の子を養子にしようとする。当年12歳で留之助というが、16になっていないので養子の願いは叶わず。しかし、この日勘兵衛の養子のことは叶わな…

まだ、着いてないのか

宝永1年5月17日。小頭からの廻文がある。彦兵殿は14日から熱田へ出かけられたが、有馬殿の到着がいまだなく、残られているのであいさつに行くように。このため巳(午前9時)頃、文左衛門は仲間とあいさつに出かける。

貧しくて埋葬もできなかったようだ

宝永1年5月16日。近頃、萱場池で40ばかりの女が裸で死んでいた。渋紙でくるんで捨ててあった。尋ねると建中寺前の借家の男が申し出た。これは我が妻で、病死したが寺へ遣わす力もなく、着せるものもないので捨てたと云々。近所の者たちでこの死骸を旦…

ちゃんと予定は守らないといけない

宝永1年5月15日。朝早く彦兵殿へ出かけるが、有馬中書殿が昨夜熱田宿泊の予定であったのでその饗応のために彦兵殿は出かけており、昨夜の到着がなくそのまま熱田に残られたので帳につけて帰る。他の役人も帰らず、熱田に残る。

牢屋定員オーバーか

宝永1年5月12日。近頃、揚り屋(雑居房)へ中間長右衛門が入る。前に入った2人のうち彦七は下の牢へ行く。その後、残る2人も七間町の牢へ行く。

法事が行われれば恩赦がある

宝永1年5月8日。朝、行赦が41人。

いつもの穏便ですが、日付の9月4日って変じゃないですかね

宝永1年5月5日。切紙をもって申し入れる。厳有院様の法事が6日から8日まで行われると仰せ付けられた。この法事の間は音曲・鳴物は止め、物静かにし、火の元など特に入念にし、下々にいたるまで諸事慎むように申し付けられたことを老中より仰せ付けられ…

これは何と言っていいのやら

宝永1年5月2日。下はらの百姓がふざけて睾丸を蹴り、誤って死んでしまう。このことをを申し出る。3、4日前、蔵王の社の扉を取り去る。祢宜は森相模。

理由もなく切り殺したのか

宝永1年5月1日。小人彦七と□□□の2人が評定所東の揚げ屋(雑居房)に入る。これは先月25日児玉と柳町の間へ切り殺した日比津の百姓を運んで捨てたため。昨夜、本屋六右衛門の女房が乱心し、自殺する。

宝永1年5月の天気です

宝永1年5月5日。快晴。宝永1年5月6日。曇。午半(午後0時)過ぎから雨が降り出す。夜は激しくなる。宝永1年5月7日。雨が激しく降る。申(午後3時)前に止む。夜、時に晴れる。宝永1年5月8日。曇。朝、霧が深いが、巳(午前9時)から段々と晴…