名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

街道のことは幕府直轄ですか

宝永1年5月30日。
今月大樹(将軍)からの命がある。
覚。
東海道ただし佐屋路とも。
一 道中人馬前々から定めの往還においては片道50疋50人までは滞りなく人馬を継ぎ送るように。この人数を越えて必要な人馬は相談の上雇うように。近年往還の輩の人馬は数が多くなり、荷物・長持なども重さも増えている。人馬を追加で出す際は助郷の村々から差し出しており、宿々、在々まで困窮していると聞いているので宿々に役人を置き、今後はこの通りに定めるので強く吟味するように。
附。荷物・長持とも重さが定めより重く見えたなら、問屋場で検査し、重い分は人数を加え、銭を受け取るように。
一 朱印ならびに宿次証文その他用の人馬は数を限らず、先の触れ通り昼夜滞りのないようにすること。
附。朱印、宿次証文の人馬は不慮に備え人足は10人に2人、馬は10疋に1疋ずつ添人馬を付け、それ以外の余計な人馬は出さないように。
一 荷物を運ぶ馬が弱く、荷物を付けられず、荷物を取り分けた場合は荷物の重さで駄賃銭を請け取るように。
一 道中の駕籠は近年多くあると聞いている。宿にある駕籠は相談の上賃銭を差し出すように。
一 先の触れの期限が延びれば触れが到着次第人馬を滞りなく出すように。
このこと固く守り、旅人から余計な銭を取らないように。もっとも銭を払わない旅人があればその旨役人に知らせ、指示を請けるように。
宝永元年甲申年5月 久因幡 安筑後
中山道、ただし美濃路ともの1通は文言に違うところなし。馬50疋を25疋とし、50人を25人とするだけである。