正徳3年8月29日。
公、襲封(領地を受け継ぐ)。
米屋理左衛門は元来とても律義に見えたので、人々は心を許し、侍や町人などは金を渡して運用させた者が多かった。
中でも萱屋町服部所左衛門は前から理左衛門に預けて運用させており、4年前まで利益を間違いなく貰っていた。
理左衛門と所左衛門はとても昵懇であった。
卯年から少々代金が怪しくなり、今年の盆過ぎには所左衛門の売物を理左衛門に頼み、7、80両で売払ったが、この金を所左衛門に渡さなかった。
このため呼びにやったけれど来なかったと云々。
理左衛門、向かいの甥ながら婿の七左衛門を所左衛門は呼び寄せ、このことを詰問した。
七左衛門は決着をつけると請け負い、判をしたと云々。
この後、七左衛門妻を離別した。
これも謀計かと云々。
しかし決着はしなかった。
このためあちこちこれを聞き付けて蜂が群がるような状態になり、理左衛門はどうしようもなくなった。
理左衛門は一文もないと言って、哀れ分散(破産)になろうとした。
これは密かに金を隠し置いたためであった。
しかし、金を預けていた町代などが分散されては大損になってしまうと、身代をつぶさせず、何とか金を取ろうとした。
神谷弥一郎も家を売った18両を預けて失ってしまった。
石谷又大夫も80両、50両とも預けたが、後日町奉行の関係に頼り、このことを話したために事が露見し、金1分にさえならなかったのはかえって上塗りと云々。(後略)
この日29日御小姓衆・御医者など尾張を出発し、江戸へ戻る。