名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2024-01-01から1ヶ月間の記事一覧

コロナの時代と同じ

宝永4年6月19日。近頃、足軽頭後藤彦太夫が大磯で乱心する。以前江戸へ下ったが、病気のため願い出て尾張へ戻る途中であった。日頃から大酒飲みと云々。従弟松井林蔵が迎えに行き、まず江戸へ引き取る。近頃、隼人正組小藤善介が痢病(赤痢)で死ぬ。近…

証拠があった

宝永4年6月15日。卯(午前5時)、文左衛門は熱田へ参詣し、巳半(午前10時)に帰る。沢の観音で眺望を楽しみ、酒を飲む。津島の市で所の者3人を捕まえ、牢に入れる。とみつき(富くじ)の言い訳は立ったが、賽2粒あり、言い訳ができなかった。

茶壷ごときと言ってはいけないか

宝永4年6月10日。大樹の茶壷は清須で昼休み、その後江戸へ行く。

また言わないと、働け

宝永4年6月9日。文左衛門は夕飯後芝山弥左と地蔵院へ網打ちに出かける。酒を飲んで楽しみ、夕暮れ前に帰る。

また味鋺へお出かけ

宝永4年6月8日。文左衛門は未(午後1時)前から味鏡(鋺)へ出かける。鰡60ばかりを得る。

絶対に怖いってトイレに誰か入って来ようとしたら

宝永4年6月7日。近頃、雲州様(松平義昌)賄志水茂右衛門の19になる子が借家の婆を切る。本重町あたりの町屋でのことであった。かつてこのあたりには化け物が出るという噂があった。この時茂右衛門は江戸に行って留守であった。この子は夕方雪隠にいた…

ケチで乱暴者とは困った奴だ

宝永4年6月6日。馬廻日置甚左衛門が改易となる。兄篠岡佐源治も江戸で逼塞となる。昨年冬に建中寺に入った盗人の中で甚左衛門の町屋に住む者がいた。しかし、町屋の名代は清左衛門という者にしていた。町へ預けられた時、清左衛門から番を付けるよう言わ…

宝永4年6月の天気です

宝永4年6月1日。雨が降る。昼から止む。曇。宝永4年6月2日。晴れるようで曇る。時に日差しがある。辰(午前7時)前後しばらく雨が降って止む。昼前にまたしばらく雨が降って止む。宝永4年6月3日。晴。宝永4年6月4日。朝の間少し雨が降り、その…

今の少年法みたいなものだな

宝永4年5月26日。生姫様は起で昼休み、清須に泊まられ、木曽路を通って来月6日に江戸へ到着の予定である。清須の宿泊で江戸への供の輩と京都へ迎えに行った者が交代する。厩中間喜右衛門が町中引き廻して土器野で火あぶりとなる。13歳の男の子は獄門…

失敗を隠したのか

宝永4年5月23日。夕飯後、勝蔵が文左衛門のところにやって来る。酒などを出して、それから味鏡(鋺)へ釣りに出かける。酒などを飲んで夕暮れに帰る。末森の塩硝蔵の工事で広井村の町人足が土を掘っていて穴が崩れ、睾丸(キン)を強くうつと。掘り出し…

日ごろの行いがすべて

宝永4年5月22日。近頃、中品野村常源寺と百姓円右衛門で諍いがある。円右衛門の小舅彦右衛門という者が円右衛門と問題があって常願寺へ立ち退く。そこから他へと出奔する。円右衛門は怒って常願寺に彦右衛門の居場所を尋ねたが知らせなかったので、円右…

通りかかったらすぐに静かにしないと

宝永4年5月18日。大樹の茶壷が通る。奈良屋七左衛門弟、花井勘右衛門子らの町人が船で出かけた。尺八や三管を吹いていると目付上野小左衛門が通りかかり、船中での鳴物・音曲は禁止だとすぐに咎めた。日置から南の堀川でのこと。

60過ぎて犬にかまれたからといって泣かなくても

宝永4年5月17日。今朝、嶋松右衛門の朝稽古に高橋只右衛門の子が連れてきた60ばかりの僕が腰掛で眠っていたところ、犬がやって来てあくと(かかと)を噛み切る。血がたくさん流れ出て僕は泣き出すと云々。

勝手な行動はいけません

宝永4年5月13日。梅昌院様用達小久保増左衛門が小普請となる。8石を召し上げられ10石になる。泰心院様形見分けの紋付を着用したいと2,3年前に目付に話をしていたが、表向きの拝領ではないためか目付からの返事がないのに紋付を着て歩いていたため。

また男女関係のもつれによる殺人

宝永4年5月8日。申半(午後4時)、清水のはずれ大日の森で生駒因幡召仕2人が喧嘩をして2人とも死んでしまう。1人は歩行の者広田小藤次24歳、1人は中小姓天野丹右衛門27歳。小藤次は横はち(側頭)を2ヶ所、肩先から斜めに切り倒される。倒れざ…

僧だからといって善人ばかりとは限らない

宝永4年5月3日。全順院・養寿院が12ヶ国追放となる。

やはり熱田は重要な宿場だな

宝永4年5月3日。日光門主が熱田に泊まられる。上洛のため。

人手不足なら仕方ないのでは

宝永4年5月2日。3月の手紙に幸福(ママ)が2,3日前に出雲からやって来る。死者は川村権右衛門で、類焼のため助力を請う。この日文左衛門は2朱1つを遣わす。先月の祭礼の榊つり(榊持ち?)に乞食を雇った町が本重町にあった。詮議が行われ、雇った…

宝永4年5月1日。晴。宝永4年5月5日。薄曇。時々、晴れる。宝永4年5月6日。夕暮れから雨が降る。1晩中雨が降り続く。巽(南東)の風が吹く。宝永4年5月7日。1日中雨が降り、ジメジメする。少し巽(南東)の風が吹く。深夜に雨が止む。宝永4年…

これも名誉なこと

宝永4年4月29日。鎌倉光明寺が熱田に泊られる。花頂山知恩院白誉上人が昨年秋に亡くなられ、その跡を仰せ付けられた。

礼儀は大切

宝永4年4月25日。芝山外記が熱田へ向かう。これは日光への礼幣使が熱田に泊られるため。毎年宰相は日光へ行かれ、大樹(将軍)から銀100枚と太刀を下される。

この人がお泊りになるよって宿場に立てる札のこと

宝永4年4月22日。但馬様(松平友著)奥さまの関札(立札)。五十人衆林・小田切が尾張を発ち、京に向かう。

最後の箸は詐欺みたいなもの

宝永4年4月18日。蔵奉行池田孫助が近頃勤めを辞めること願い出るが、切米、扶持方を差し出すことはなかった。このため江戸から書状がやって来て、切米などを召し上げる。しかし、長い間勤めていたので新たに3人扶持を下されると云々。近頃、五十人目付…

今年も東照宮祭

宝永4年4月17日。祭礼が例年通り行われる。辰(午前7時)過ぎに始まり、未3刻(午後1時半過ぎ)まで。

何年かに1度は山車も新しくするんですね

宝永4年4月14日。伝馬町の弁財天・京町の小鍛冶は新しい車であった。巳(午前9時)頃、町奉行へ初めて曳いていく。人々が群れ集まる。揚屋の出家を寺社奉行両人・十人衆両人で詮議する。

何という親だ

宝永4年4月12日。この夜、井上文右衛門の門外西寄りに男の子が捨てられていた。文右衛門は番に出ており、召仕が聞きつけて亥刻(午後9時)に中へと入れた。病気のようであったので治療するが、4、5日過ぎて死んでしまった。

これぞ役人の鑑

宝永4年4月11日。この春、国奉行からの用務があった。濃州上古井村へ足軽3人を遣わした。百姓から賄金1分ずつを足軽の袖に入れた。足軽は請け取らずに帰り、国奉行に報告した。奉行から年寄衆に報告し、江戸へと伝わった。百姓を呼びよせ、水責めの拷…

文左衛門、もう少しで出火元

宝永4年4月5日。五味弾右へ文左衛門は出かける。内詰手代田丸領右衛門に出会い、篠岡勘平のことを頼む。同役神部定介にも頼んでくれるように言う。これは平兵殿宗旨一札(宗門改)のことで。同15日に勘平の願書を北方村の組頭弾右へ持参する。その文に…

輿入れも大変だ

宝永4年4月2日。この度、但馬様(松平友著)へ生(イク)姫様が輿入れ。江戸へ向かうためお迎えは京都へ馬廻戸田孫兵衛・鳥居五兵衛、江戸へは深沢新平・増田六郎兵衛。医者は京都へは住山仙庵・外科の本多林左衛門、江戸へは太田道周・並河芳設。五十人…

宝永4年4月の天気です

宝永4年4月1日。晴。深夜に雨が降る。宝永4年4月2日。雨が止み、曇る。宝永4年4月3日。快晴。宝永4年4月7日。曇。昼過ぎ、少し雨が降って止む。その後、薄曇り。夜半に雨が降って止む。宝永4年4月8日。曇。辰(午前7時)から晴れる。宝永4…