安永9年(1780年)。
1月。
1月1日、晴天。
同夜八ツ半(午前3時)頃、鐘(橦)木町屋敷で火事があり、片端筋も焼失する。
石掛横丁の表でも屋敷方(武家)の小屋(下級藩士の住居)が焼ける。
15日、熱田神事で御的当たる。
2月。
2月8日より、七ツ寺弁才天を開帳する。
11日より、同寺聖徳太子を開帳する。
同日より、巻窓院本尊聖観音を開帳する。
この春、若宮境内にて物真似・子ども狂言の興行が行われ、かなりの繁盛ぶりで、初日より3日までは木戸を留めるような大入りとなる。
もっとも、刀指(侍)・かぶり物(冠者、家来)も見物を許されていたが、この間に悪い噂ががあり、刀指・かぶり物は見物できなくなり、人の入りがとても落ちる。
大須にてあやつり芝居の興行が行われ、刀指・かぶり物の見物を許す。
雛のような人形で行う義太夫浄瑠璃である。
繁盛する。
世間で三日はしかというものが流行る。
9日より、法華寺町の寺々で祖師五百年遠忌が行われる。
18日より、妙善寺でも同様に執り行われる。
久屋誓願寺上人は彼岸の間から毎日説法を行い、これは西国三十三所の観音堂建立、ならびに庫裏造立のためである。
上人は岐阜のせんてう(善超寺?)の上人で、昨年当寺の住職となる。
18日夜九ツ(午前0時)頃、南寺町養林寺が炎上し、全員寝ていて燃え出したことも知らず、隣の寺の早鐘で驚いて飛び出し、本堂・庫裏は残らず焼失する。
寺家(僧の住む家)鐘楼、井戸は残る。
20日より、富沢町聖徳寺開山閑善上人の法事が行われる。
朝鮮の香桂子(スパイスの一種)売りが町々を踊り歩き、大評判となる。
去年冬より珍しい手妻遣い(手品師)の山猫のずんど兵衛という者が風変わりなことを行う。
小さな壺の中に這い入り、首だけを出す。
町々で紙細工の茶釜売が大いに流行る。
歌いながら売る歩く。
熊野本宮十二宮、その他末社・殿門など焼失につき、勧化(寄附)を言いつけられるとの触れが来る。
3月。
3月1日、殿様が出発し、東海道を下る。
10日より4月15日まで、寄木天道宮前立大日如来を開帳し、堂の建立のためあちこちから地形築(地をならし、固めること)にやって来る。
御器所村神宮寺本尊薬師を開帳し、同寺庚申堂内で砂子村大威徳明王を開帳する。
29日卯ノ刻(午前5時)、急に激しい雷雨となり、霰が降る。
前代未聞の大きな霰で、これを秤にかけると20匁(1匁は3、75グラム)あまり、中でも大きなものは70匁あまりもある。
津嶋あたりより起(おこし)宿あたりまでと。
神守あたりにては屋根が破れた家もあると。
佐屋・津嶋より名古屋・小牧・犬山あたりで降ると。
3匁より5匁、7匁、あるいは20匁、30匁、枇杷島あたりは70匁くらいあると。
津嶋あたりより海東郡せんのふ(千音)寺村あたりは石も交じって降ると。
雷があちこちへ落ちる。
長者町二丁目・御園町と伏見町の間の車ノ町、長嶋町と桑名町の間の堀切・巾下戸田町・東懸所内2ヶ所、ただし、太鼓堂は激しく壊れ、西の松林では2本皮がむける。
また、裏でも1ケ所に落ちると。
その他雷が落ちたところはあわせて21ケ所あまりあると。
名古屋の下あたりでは霰は少ない。
前津あたりより東南では降らず、東北は激しいと。
春日井郡森(守)山村にて変わった獣を捕え、飼って置く。
この雷よりも前に捕えたとのことで役所へ届け出る。
比良村にて変わった鳥を捕える。
東御殿へ献上するが、無用となり、鳥屋に置いたがやがて死んでしまう。
この鳥は山奥にいると。
霰について降ってきたとの噂がある。
霰では生えた草も降ると。
津嶋あたりでは火鉢ほどのものも降ると。
4月。
4月1日夜半頃、玄海橋東南側の奥田町米屋より出火し、西へも半町(1町は約100メートル)ばかりが焼け、東は出放れ(外れ)まで、並木の松2本を燻って火が止まる。
南は玄海境までで乞食に被害はなし。
北は表ばかりで裏に被害はなし。
大円寺は門だけが焼け、寺の中に被害はなし。
夜明け頃鎮まる。
11日申ノ刻(午後3時)、三の丸稲富氏塩硝(えんしょう)蔵で火が入った理由はわからないが、臼が弾けて2人が即死し、使っていた諸道具類はあちこちの屋敷へ飛び込み、またその音で腰板の外れたところもあり、近辺の戸障子はしばらく鳴りやまず、火が書院へ燃え付いたのを何とか消し止めると。
この音は遠くでも聞こえ、宮出放れ、松原で煙が見えると。
大光寺にて、身延山祖師上人ならびに奥の院前立七面宮を開帳し、霊宝モウコ(蒙古)退治幡曼荼羅、その他宝物を15日より25日まで弘通し、参詣の者が多くある。
身延山霊宝は東海道より到着し、御迎同行の題目は大きな声である。
この度の開帳は七面山宮殿の再建のためである。
当寺七面堂に宮殿の絵図がある。
12日夜七ツ(午前4時)過ぎより、五女子村出町の佐屋街道新橋の西両側が焼失し、堀川通南は少し残り、北は残らず焼失する。
御祭礼(東照宮)が行われる。
御先乗は平沢只左衛門、相役八木氏は忌服のため1人で勤める。
押乗りは室賀平九郎、大橋金吾。
中将様(宗睦三男治行)従姫様が婚礼を終えられたとの触れが廻る。
27日、雨天。
夜半だけ雷雨がひっきりなしで中橋裏へ落ち、土蔵2つが稲妻で焼ける。
名家の家にて清須越の者である。
公儀より拝領の諸道具などが残らず焼失する。
中でも唐画屏風、掛物は格別のものと。
明の絵、金の御紋つきだけが残ると。
6月。
6月、御家中で博打、その他行いの良くない者が改易、もしくは御叱りなどになり、都合70人あまりと。
改易は服部善兵衛、大藤。
久屋町、全泉庵を開帳する。
広小路、柳薬師を夜開帳する。
七ツ寺にて京都清水法花三昧堂本尊、十一面千手千眼立像ならびに宝物などを開帳する。
同地内にて味鏡(味鋺)村天永寺観音を開帳する。
当七ツ寺建立の観音堂本尊を開帳するも、到着の時より時たま雷雨があって繁盛せず。
稲荷芝居は京都より引き連れてきたもので大当たりとなる。
夏の休みの間、京都のままやって来ると。
1日に70貫文ずつ稼ぐと。
12日より25日まで、金塚町万福寺宝物を弘通する。
16日夜、古金買(今のスクラップ屋)が青物売(野菜の行商人)に恨みがあり、押切にて待ち伏せをして切りかかり、傷を負わせてそのまま逃げ去る。
青物売には番を附けると。
噂では古金買はこの日力持せ(力自慢)をしていたところ、この青物屋が笑ったのを恨んでのことと。
東の村では雨乞いを龍泉寺で行う。
ほどなくして雨が降る。
そのため、七ツ寺の開帳は繁盛せず。
この開帳を請け負った海老屋は行方をくらます。
噂ではこの度清水へ50両、七ツ寺へ20両出して海老屋は請け負って開帳するも繁盛せず、そのため行方をくらますと。
また昨年改易となった源市と青柳とは仲間だと。
26日昼過ぎ、雷雨が激しく、枇杷島橋の欄干に雷が落ちて裂けると。
沢の観音寺、小林あたりその他あちこちへ落ちると。
この雨から毎日悪天候で、雨が降り続く。
この雷は、熱田本遠寺、下中村、また高岳院寺、久屋町二丁目、佐屋街道より下はあちこちへ落ちると。
7月。
7月、津嶋の御葭は同所と牛立村が半分ずつ奪い合ったので祭ることができず。
7日より、知多郡かけ(加家)村の観音を開帳する。
12日夜、萱屋町にて、屋根が少し燃ええているのを火事だと叫びながら通る者があり、放火だと町内の者が大勢で追いかけると、この者は必死で逃げて夜回りの前へ駆け込んで詳しく吟味され、そうではないと言い訳するも、逃げ出したのは怪しいとなかなか面倒なことになると。
15日、大乗院末社弁才天を正遷宮する。
申ノ刻(午後3時)より亥ノ刻(午後9時)まで神楽が行われる。
同日より、社内にて相撲の興行が行われる。
小屋の外で口論しないよう、悪口、おかしな言動の輩は侍であっても、家来と同様に扱うとの奉行の制札が立つ。
盆3日の間、南寺町、法蔵寺内仏阿弥陀如来、立像を開帳し、これは親鸞聖人の負仏(背に背負う仏像)だと。
噂では、聖人はこの寺が真宗建立の地で、その後に浄土宗になったので今の伝馬町火の見のあたりの法蔵寺にこの本尊を安置したところ、一晩でこの寺に戻ったとか。
宝物は故あって小田井村西方寺にあり、縁起は新道法蔵寺にあり、この新道の寺はこの西方寺より建立と。
29日より9月23日まで、中嶋郡大塚村性海寺本尊善光寺如来の尊像を開帳し、浄蓮上人の作、ならびに境内宝塔の愛染明王、その他霊宝を弘通する。
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