名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

そうか庄屋は悪くないのだ

宝永5年10月6日。
志水八大夫と牛込茂右衛門弟2人の3人が豊場近所の能田村へかへどり(替取、川などせき止めて魚を獲ること)に出かけた。
細野仙右衛門・小笠原源太左衛門・佐枝新兵衛3人の知行であったので3人に断りを入れ、その上新兵衛の手紙をもらってもしものために持って行った。
また案内のため寺尾兵治から召仕を連れて行ったと云々。
池をせき止めていると源太左衛門の庄屋七左衛門が現れ、いきりにこれを止めさせようとした。
件の手紙を見せたけれど納得せず、手紙があっても沈んだ田地の年貢を出さないわけにはいかないだろうといろいろなことがあった。
3人が村へ食事に入ると、七左衛門はますますこれを止めたのでおおごととなった。
太夫がやって来て𠮟りつけてまた村へ戻ると、その後から七左衛門は百姓20人余りを連れてやって来て、せき止めた水を流すと水が張って元のようになった。
投網も重箱なども全て流されて跡形もなくなった。
兵次郎召仕の鼻紙袋の中には田地の賃物の手形があったがこれも流れてなくなってしまった。
3人は怒って𠮟りつけるが七左衛門は取り合わず、自分の家に入って出て来なかったと云々。
3人からこのことを源太左・仙右・新兵に訴えると、3人からはこちらから返事すると云々。
川澄与三右衛門などが謝罪に関わり、紛失した道具などを残らず弁償させ、源太左衛門のところに首謀の百姓3人を手鎖ををして置き、どうにでもしてくれとのことであった。
しかし許して、もう一度池へ行って気持ちよくかへどりをしてくれと詫びて済ませた。
投網などなくしたものは全て弁償した。
茂右の弟2人伴六・加平治と志水八大夫の3人が出かけてた。
茂右弟の大小刀も紛失したと云々。

今年5月18日に甚目寺で何村のとやらの百姓が馬頭で能田村の者たちと争い、負けていた。
百姓はこれを無念に思って地頭を通して野(能)田村の池にはたくさん魚がいるからかえどりをすればとこの3人にすすめ、出かけて泥を投げ、水をかき回し、田地をはなはだ荒らす狼藉をはたらいた。
そのため能田村の庄屋がこれを止めていた。
春日井郡小田井ノ庄能田村。