宝永5年4月6日。
広小路神明の祢宜鈴木土佐が勧められて隠居する。
日頃から不行跡で淫乱であった。
吉見氏からの廻状、触などを永らく留め置いて他へ廻さなかった。
その他にも吉見氏の申しつけに背くことなどもあった。
先ごろ那須心庵が高須へやって来ていたのを、摂州侯(松平義行)から本家に憚られるので高須には留まらないようにと。
ただし五三日(数日)の逗留は世継ぎもいることなので苦しからずと云々。
子の変事が起こる前のこと。
このため動揺して、京へ向かおうとしたが今日が大火にあったので、大垣へまず向かうと云々。
近頃、中川三紀右衛門のところへ夜中に庄蔵の使いがあった。
急に話したいことができたので、急いで来てほしいと言って帰って行った。
三紀右衛門は驚き、庄蔵の父で町家に住むイユウのところまで行って確認すると何事もなかった。
イユウから庄蔵のところへ人を遣わすと、庄蔵は熟睡していたが驚いてイユウのところへやって来た。
とにかく三紀右衛門は庄蔵の家を留守にしたのが心もとないと急いで人をたくさん遣わしたが、何事もなく夜が明けた。
先月28日の夜、高須で岡田新八弟納戸役岡田作左衛門のところへ作左衛門同僚大崎七太夫という者が荒尾弥一を連れて話にやって来た。
主人と客は酩酊し、客がいつ帰ったかわからないぐらいだった。
作左衛門のところには明日差し上げる予定の金300両が箱に入れてあった。
翌朝見てみると200両がなくなり100両だけが残っていたと云々。
翌日弥一がやって来て言うには、金がなくなって困っているだろうから私が100両貸そうと。
作左衛門は断ったと云々。
また弥一がやって来て200両を貸そうと言うが断った。
作左衛門が言うには100両、200両借りても返す当てもない。
このことをすぐに上に申し上げると云々。
それならば200両を差し上げようと言うが断ったと云々。
どうも怪しいので平沢只左衛門が知るところのなると云々。
このため弥一は金を道に捨てると云々。
金を拾ったものがあり、弥一の悪事が露見した。
弥一は那須心庵の次男で、荒尾喜右衛門が弟分にして名字を名乗らせ、津守様(松平義行)へ奉公に出していた。
喜右衛門は村瀬自休の子で、荒尾六右衛門のところへ入婿に来て荒尾と名乗っていた。
心庵の先妻は自休の娘で喜右衛門の姉であった。
弥一は平沢只右衛門に預ける。
同道は馬廻大岡半之右衛門の伯父であった。