正徳3年4月16日。
舞楽は巳(午前9時)過ぎに終わる。
文左衛門はこれを見物する。
呉服町に薦僧が揃い、巳(午前9時)過ぎに新左衛門の弟大津丹治郎と太左衛門の子林甚五左衛門が見物していると、桑名町の下西鍛冶町の大工治兵衛の子吉左衛門という浮気者(粗忽者)と争いとなり、2人で吉左衛門を踏みつけた。
これは橘屋の足揃の時だとも云々。
踏まれた吉左衛門は起き上がり、2人の御目見衆を引き捉えて東側の泥溝へ突っ込んで踏みつけ、衣類も引き裂いて大小も叩き壊すなど無茶をした。
丹治は口を少し裂けて血を流し、泥まみれになって髪も乱れた。
林甚五左衛門も同じく泥まみれになって鼻の上を少々傷ついた。
這いながら帰る際には言うほどもない腰抜けと町人まで笑った。
田嶋新兵衛の子林三と都筑八兵衛の子市二郎はこの2人の連れであったが、争いを見て振り返ることなく逃げ去った。
この親や兄などがこのことを町代に話をし、また内緒で同心衆へ頼んだが町奉行も聞きあぐね、切り捨てておけば何のこともなかったと眉をひそめ、まずは聞かなかったことにしたと云々。
恥の上塗りだと人は笑った。
大津新左衛門は気にもしなかったのか青木小左へ行き、内緒と言い捨てて伊勢を参宮した。
不用意な者だと笑った。
5月4日に青木小左衛門が大津と林のところへ行き、先日伝えられたことを仲間と相談したところ、とにかく奉行衆の耳に入れ、この大工を厳しく処分するべきであるが、そうすると詮議があって2人の名も出るのでそのまま我慢してくれと。
大工は詫びに家まで行かせると云々。
2人は以前からの付き合いもあり、かたじけないとそのようにした。
青木へ両人は礼に行き、これで片は付いたと喜んだ。
大工は既に世間に知れ渡ったと5日には熱田をぶらつき、その自慢話は聞けたものでなかったと云々。
当4日、知多大野のトウリウ(東龍)寺の塔中鑑光院の住持はもてなしがあり、出入りの手習いの子どもの中で15になる美少年に頼んで給仕などをさせたと云々。
住持は性高院の弟子であったが西山派となって住持となっていた。
少年の伯父坊がこの日は酒を飲みすぎなかったかと行ってみるとひっそりとしていた。眠(ママ)蔵(寝所や寝具をしまっておく部屋)を見ると住持と少年が重なり合って死んでいた。
察するに少年が何か毒を飲んで死んだのを、日頃の愛情からどうしていいかわからず、その上親類に疑われるかと思って自殺したのではと云々。
少年には全く傷もなく、僧は剃刀で咽を掻き切って死んでいた。
検使があったけれどどういうことかはっきりせず、ようやく15日の式日に解決し、死体を片付けた。