名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

正徳5年、名古屋城に盗みが入った事件 その6

10月21日、仲満番人に左の書付が渡った。22日から番は隔日になった。
一 城内番所ならびに足軽ども、今後は両組で申し合わせ、隔日で勤め、番の交代時刻は今まで通り。
一 御本丸、御深井丸の当番の同心の中から1人は足軽2人を召し連れ、1晩に3度見廻るように。同心の中から2人は番所を空けないよう心得るように。卯の刻(午前5時)過ぎ、あちこちの見回りを済ませてからは御本丸、御深井丸ともに夜中勤めた足軽は指図を戻すように。榎多門に夜中勤める足軽は亥の刻(午後9時)から卯刻(午前5時)過ぎまで1人ずつ御本丸西拍子木門際から御深井丸すかし門際まで1晩に5度見廻り、その見回りごとにすかし門の中の番人へ門外から見廻りのことを伝え、同心は見廻る際にそのことを尋ねるように。足軽も勤めで何かあれば、無視するのでなく御用番御城代へ伝えるように。
一 御深井丸で勤める足軽は2人ずつ申し合わせ、1晩に3度あちこちを見廻ることを申し付けるので、足軽目付役が門の鍵のことを申してきたら渡すように。見廻りが終わったら目付役の者は番所へ報告があるか、ないかを尋ね、鍵を請け取るように。もちろん目付役の者もこのことを申し上げるはずである。ならびに足軽番所において灯のほかには火は扱わないよう。もし火を扱うようであれば遠慮なく厳しく吟味する。以上。
未10月。
覚。
一 御本丸、御深井丸当番の中から同心は1晩に3度見廻るように。
一 御深井丸当番の足軽は2人ずつ1晩に3度見回りを勤めるように。ただし同心が見廻る際は下番(交代)の平役、足軽は門の鍵を持参し、塩蔵門前でが番人1人加わり2人となる。同心と共に見廻り、足軽だけで見廻る際は同心へ目付役の者が申し上げ、鍵を請け取り、塩蔵門前番人2人に鍵を渡す。右の門を開けて見廻らせ、目付の者は右の番所に留まるように。見廻りが終われば門の錠を下ろし、2人とも番所へ戻れば代りの者が鍵を請け取り、錠をおろした場所を調べ、それから透し門番所へ向かうように。このことを心得、2人の番人は矢来(囲い)の中あちこちを見廻るように。問題なく見廻れば上番所へ行き、そのことを伝え、鍵を戻すように。
一 榎多門当番の足軽は亥の刻(午後9時)から卯の刻(午前5時)まで1人ずつ西拍子木門際から御深井丸すかし門際まで5度見廻るように。ただし榎多門で出入がある際はいつでも立ち合い、足軽2人が出向いて勤めるように。
一 東鉄門番所では、足軽目付が勤める場所は今後は小頭役が勤めるように。
一 御本丸天守の新番所へは夜だけ足軽平役が2人ずつ勤めるように。
一 榎多門。同様。
一 御深井丸透の門。同様。
一 同所塩蔵門番所。同様。
一 同所同心番所へ昼は足軽平役2人。夜は目付役1人、平役1人が勤めるように。右御本丸、御深井丸へ毎日申の中刻(午後4時)頃に出向き、翌朝卯の刻(午前5時)過ぎに同心はあちこち見回りを済ませた上で指図をうけて帰るように。目付役どもは塩蔵門新番所、透之門新番所、榎多門番所の火の元などを調べ、問題なければそのことを御用番方へ行って届けるように。番所でおかしなことがあれば遠慮なく申し上げるように。
一 両組の足軽は隔日に交代で御番を勤めるように。毎朝交代の際は西鉄門にいる小頭と夕方から詰めている小頭が申し合わせて同道し、榎多門、元御舂屋門内を見廻り、間違いなく請け取り、渡しを済ませた上で番を勤めるように。申の中刻(午後4時)頃、平役1人が元御舂屋門内を見廻るように。小頭が番所を交代する時は問題ないことを御用番に届け、帰るように。
正徳5年未10月。

未の冬。渡辺新左殿足軽鈴木加平次が下屋敷へ預けられた。町奉行へ呼ばれた際も袴を着て出向いた。これは沖野一郎右衛門のところで加平次子が若党をしており、寵愛を受けていた。一郎右衛門のところに以前からいる賄の女はこのために力を失い、これを恨んで何とかこの男に暇を取らせようと計り、女は米屋又七とかいう者に落し文(今なら投書)をさせ、城の幕を盗んだ者を加平次が知っていると云々。このため加平次の子は預けられた。加平次に再三にわたって恨む者はないかと尋ねられたので又七のことを思い出し、早速又七を召し捕って詰問し、文字を書かせてみると落し文と同じ筆跡だったと云々。このようにわかったのは申の冬頃のこと。

未8月9日に5人の衆を1人ずつ御預けの足軽頭と一緒に評定所の寄合の日に諸役人の溜りの間で詮議した。詮議の衆は敷居を隔て東の間にいた。
田嶋儀兵衛は盗みのことは知らないと一々説明し、その後言うことではないけれど盗みを早く見つけ出せるよう詮議していただければ、我らの悪名はぬぐえるかと。このような悪名を被ったのは侍冥利に尽きると泣き出すと、詮議の衆は何れも涙を流された。詮議の場には足軽頭は同席せず。この日一度詮議があっただけで、その後は一度も詮議がなかった。

評定所で5人の衆は一切煙草が吸えなかった。行水はいつでも行えた。髪は中間が結った。家への伝言は取り次ぎ、手紙は一切送れなかった。朝夕2度の食事は一汁一菜、時に魚が出た。夜食は茶漬け。5人の中で助左衛門は病気になった。しかし医者は呼ばれず、様子を伝えて薬だけを調合し、持って来させた。

11月13日頃、御帳付田嶋権大夫は今まで引き込みとなっていたが、赦されて勤めに出ると。御帳も替る。