名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

福君は徳川斉温の後妻です

天保7年。
一 記事なし。

一 7月7日、日置あたりでかなり毛が降る(空から白い毛のようなものが降ってくること)。

一 7月7日夜、土呂町西の小原屋という酒屋で浅野治部左衛門組の御中間藤三郎、・伊助・庄三郎という3人が酒を呑んでいたところ、女のことから庄三郎は1人先に帰るが、伊助を呼び出して持ち帰った伊助の刀で切りつけたところ、伊助は手で受けとめたたので中指・無名指(薬指)の間を5寸(1寸は約3センチ)あまりが切り裂かれ、倒れたところをまた庄三郎が一太刀腹を切りつけたので翌8日に死んでしまう。
この時藤三郎は仲裁しようとして肩から斜めに切りつけられるが、傷は浅いと。
庄三郎は伊助の刀で切りつけたので、自分の大小を差したまま逃げると。

一 7月19日夜、熱田橋本屋喜市を祢宜町鏡屋某が切る。
その後、町奉行所同心隠密方川出嘉一宅へ名乗り出たので、すぐに召し捕らえる。

一 同夜永井飛騨守殿小指の者(下級奉公人)が熱田鈴木屋懸人(食客や居候)を殺すが、30両を出して内々におさめると。

一 8月1日、延場(取引所)が川浚えを勤める。
銀2貫300目・人足300人あまりを差し出し、当日はいろは48本の四半(幟)を押し立て、人も多く出る。
豪華ではないけれど見事である。

一 同5日、長者町延場から出る山車は三日月に吹き流し、白地に横木瓜(よこもっこう)の紋が付き見事であるが、それ以外は質素である。

一 この春、御普請方役所前の堀川端に舟番所が立派に出来上がる。
これまでは御普請方役所の中にあった。

一 8月13日甲子、夕方から少し風が吹き、雨は激しくて1晩中激しい。
加家村新田のあたりでは山が崩れ、人家10軒余りが崩れ、4人が死ぬ。
新馬場の松は倒れる。
南御屋敷の松が倒れる。
御書物蔵は水に浸かって御書物2千巻ほどが水で腐ってしまう。
枇杷島の川水は8合8勺となる。
勝川あたりは水に浸かる。

一 西美濃天災の事。
当6月18日申下刻(午後4時半)、丑寅(北東)から急に激しい風と雨になり、雷も激しく鳴り、近隣の戸田采女正御預り所の濃州不破郡野上村へ吹き廻って大荒れとなり、人家や立木などを吹き倒し、田畑の作物を荒し、それから風は伊吹村の字喰違という堰のあるところへ廻り、刈り取り前の稲などを吹き折り、村の西の山沿いへと向かって立木などを吹き倒し、大高見村の北へ廻り、山沿いを少し吹き荒し、竹中主税助領分関ケ原村北の山へ向かって吹き荒れたので死者や怪我人などが出る。
尾州御領分はこの伊吹村意外に被害はなし。
この申下刻、野上村の方で早鐘が聞こえたので伊吹村も者たちは火事だと思い込み、皆で道具を携えて向かうと、予想よりひどい有様で木が倒れており、家の下から人々を助け出すと。
本当にめったにない天災である。
世間では竜巻との噂もある。
この被害の詳細は次の通りであった。
野上村。
惣家数136軒、東西11町(1丁は約100メートル)ばかりの内。
一 倒家 36軒。
一 同添家 13軒。
一 損家大小 34軒。
一 即死人 2人で女の子ども。
一 怪我人大小 2人、9人。
一 倒木 松、柿、桑の類があちこちでたくさん。
以上。

一 木曽路を上られるので米の貴重さは玉の如し。
米1斗に籾1升が入った飯を従者は食べると。
のどにつかえて甚だ難儀すると。

一 のちの俊恭院様の福君様が来る10月に江戸へ下られるので御迎えを成瀬主殿頭殿が勤める。
8月23日に江戸表を出発する。

一 9月4日、到着する。
7日、定光寺を拝礼する。
11日、犬山に入る。
□日、京都へ出発する。

一 9月23日、大雨で増水する。
巾下江川紙漉橋では中彦の店の者も勤めていた小針太助もはまって流れ死ぬ。
同日、下流でも侍が死ぬと。

一 福君様が10月6日に京都を出発し、美濃路を通る。
同11日尾州に到着する。
14日まで逗留する。
前大納言様斉朝公様との対面もある。
15日出発し、東海道を通る。
28日江戸市谷に到着する。
□日御婚姻を調えられ、御供は御家老成瀬主殿頭殿が勤める。
(歌略)

一 11月11日、桜の天神で施しが行われる。
その他でも多く行われるので略す。

一 同18日未の刻(午後1時)、地震がある。

一 12月27日夜、島田村・香取村で火事がある。
東西で一度に。
東の方では大いに騒ぎとなる。
初めは駿河などと言って寄場がとても賑わう。

(福姫行列略)

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