12月6日。古木屋円六が町へ預けられる。出来町控家の長屋を家来と称して6軒貸していた。この朝、御代官大津瀬左衛門の手代・足軽などがやって来て、戸が開くのを待って中に入り、6人全員を牢に入れた。その妻子には所から番が付いた。
12月中旬、萱屋町に住む御馬廻小頭志水甚左衛門というこの借家の者が御本丸足軽の下屋敷へ盗みに入り、捕らえられて大家へ預けられた。この盗人は初め仁兵衛と名乗り、御本丸の足軽であった。
12月27日。志水で孫助という者が預けられた。孫助は浜嶋甚左衛門の妾の子であった。近頃、所の者が諸道具を売り払い、江戸へ引っ越した。その中に階子(梯子)があった。この階子は城のあの階子ではないかと言っていたのを下目明しなどが聞きつけたか。
申3月。近頃、昨年牢に入った修理殿足軽佐橋十蔵の15、6才の男の子が病死した。御老中からの指示があったとのことで、葬ることができなかった。
近頃、渡辺新左の足軽で、自害し損ね、預けられた者があったと。
3月下旬、永井善左衛門は近頃までたまに番に出ていたが、近頃から定めの通り番に出た。
3月9日頃、5人の仲間の家宅破損料、家内の衣服などの費用、召仕の切米などを面々の知行所からの金で与えられた。破損料は、大岡は5両近く、その他は2両くらいであった。
申4月27日。東屋敷に入った5人を元右・与左が受け取りに出向いた。町駕籠に乗せ、大小刀は外に持たせた。修理殿で申し渡しがあり、銘々の家へ帰り、閉門するようにと。未半(午後2時)頃、それぞれ家々へ帰った。頭から家までの駕籠賃は面々が出した。この際の足軽頭は成田藤右衛門・高木源五左衛門。弥右・十郎右・源右の3人は頭からそれぞれの家に前もって知らせた。その上、隣家などにも知らせた。永井善右衛門も閉門仰せ付けられたが、その後これは間違いで喜十郎宅閉門の間違いだったと云々。
御城代足軽、御本丸足軽とともに再び牢に入った。ただし御本丸一の門の番人田中太左衛門・古屋円右衛門の2人は扶持を召し上げて済ませた。御飼殺も同様。田中太左衛門は暇を出された後、萱場池へ身を投げて死んでしまった。
辻番人も天王の後の番人2人は赦され、榎門の側の2人はその通りに御預けとなった。その後、処罰が仰せ付けられると云々。林金左衛門若党には去年から主人に注意を怠らないようにとのことであったが、これもこの日決着し、主人に任せるとのことであったので請人に渡した。若党は御城代足軽の牢に入った者の弟であった。一季居(1年雇い)の若党で佐馬瀬伝左衛門と。
この日、箕形善左、堀冠勘兵から戸田源五右へ手紙があった。定出人仁兵衛を角右衛門のところに預け置いていたが、この日から所預けを赦し、不問にした。その他の定出人どもは城下ならびに町続きに入らないよう申し付けたが、これもまた常の通りと心得るようにと云々。
瓦師加藤十左衛門弟子弥七・善六、左官水田壁右衛門弟子善蔵は城下、町続きに入らないようにとのことであったが、これも仁兵衛と同様。
両御城代衆は叱りつけられた。新左衛門殿もかなり長々と言いつけられ、常々の同役の申し合わせなどを行っていないのかと云々。縫殿殿で修理殿は遠慮となった。新左衛門殿は一人役と当分なるので遠慮にはならなかった。渡野与次右・岡崎弥兵も叱るつけられた。一人役なので遠慮には及ばずと云々。
5月3日。5人衆の知行米は納屋の蔵に70石余りあった。この日売り払うと130両余りになった。1両で5斗6升3合を庄屋どもが金子を持参し、明知奉行へ渡し、その後修理殿が預かり置かれた。
同9日。修理殿が遠慮を赦され、出仕した。岡崎弥兵衛足軽は牢に入っていたのを赦され、前の通り勤めた。ただしその中の1人弥兵衛には暇を出した。これは町奉行から詰問の際、ひどい目にあわせたと。隠し事があったからと。
6月29日。古木屋円六が赦された。御用などは前々の通り勤めるようにと町奉行が申し渡した。昨年からの経費は円六から出すことになった。6月22日。辻番吉川三十郎・常川忠左衛門が牢に入った。
7月ある日、明知奉行から5人衆の知行は明知(没収地)ではないので断り、扱わなかった。百姓なども未払いの税は残らず出し、金で頭へ預かり置かれた。麦は大田紋右・広瀬甚之右・平岩猪之右・都筑伝左・村瀬弥兵衛5人で預かり置いた。
8月8日。夜5人の閉門が赦された。友右・甚右は編笠をして歩いて出かけた。残る3人は病気があるからと駕籠で出かけた。亥(午後9時)頃帰宅し、月額を剃り、頭に礼に出向いた。丑(午前1時)頃帰宅と云々。
言いつけの大意。去年8月2日、城内に盗みが入ったことは思いもよらない残念なことで不届きと思われている。きつく言いつけられたが、許された上で閉門も赦されると云々。ただし番についてはおって申すと頭から申された。小頭からその後内々に隠居を勧められた。
10月4日。田嶋儀兵衛・井上文右衛門は願いの通り隠居となった。ただし当時田嶋権大夫は江戸にいた。各80石となた。残りの3人は実子がなく、かつ年が若いので養子ということにもならなかった。このため願いの通り、知行・家屋敷を召し上げ、新たに下されるとの申し渡しがあり、各70石となった。友右衛門は山崎文次郎の子甚九郎、助左衛門は出雲守様(松平義方)御勝手番姉婿常川幸右衛門の子長三郎を養子に願った。甚左衛門は実子があったが、3歳で、当時番人が少ない時でこれはどうかと弟弥惣次を跡取りに願い出た。しかし仰せ渡しを聞き、甚左衛門は不満で小頭に不平の口上を述べると云々。