6日から榎門で御城代足軽が昼の間番をする。これは御本丸御家具多門で作事が行われるため戸田源五右衛門から願いによる。
2日の朝、榎多門を戸田源左衛門手代伊藤庄次郎が請け取る。同じく人数を調べた手代は早川伝左衛門・新井孫兵衛。作事が終われば門を閉めるようにと西銕門内番所へ申し遣わす。足軽一緒に榎多御門へ行き、作事方の者を残らず出し、門を閉めると佐橋半六に知らせ退出する。
3日の朝、早川伝左衛門と定出人(その日の当番)2人を召し連れ榎門へ請け取りに行くと開いていたので、手回しよくもう開けたのかと作事方の者が入る。
御本丸足軽も加番ができ、寝ずにいる。その際に夜は2人増え、やがて1人加わることになる。
6日、修理殿から岡崎弥兵衛手代組の番人は自ら遠慮する。御深井の足軽2人は押し込め置くと云々。このため弥兵も浦番円右衛門・太右衛門の2人も押し込め置く。
山崎友右衛門は6日に何もなかったように番に出たのを相原小右衛門と交代し、6人の輩は何れも門を閉ざし引き込むようにと。
4日、中通り以上は城二の丸へ出向き、話し合いがあると。
同日から町などでも厳しい詮議がある。1日以後在所などへ行った者はないかと毎日厳しく詮議がある。
同日、九十軒町清六借屋の大工源兵衛が逐電する。妻子は大家に預ける。
隼人正は犬山にいたが、このことで7日に戻られ、人やすぐに戻られなかったことを批判する。
10日、庵腹平左のところへ5ツ(午前8時)に足軽頭の中から平野助右、その他御金奉行、御作事奉行、御大工頭などを1役1人ずつ呼び、城内の盗みのことで注意を怠らず、どんな手がかりがあれば吟味するよう申される。
6日から小天守御金蔵の入口の鉄扉に鎖をする。その中の天守へ行くところの扉も同様。毎朝西鉄門から足軽が来て両方とも開け、また申(午後3時)頃やって来て錠をする。鍵は御本丸上番所に置く。
御深井番所は加番などはなし。御本丸は夜に足軽2人ずつで来て、寝ずに時々見廻る。提灯に灯すろうそくは上から支給される。上番衆でも人により同じく見廻る者もあった。
12日の朝、大塩与左から呼びに来たので文左衛門は出向いて文章を考え、左の通り記して急いで遣わす。両組、平組とともに。
口上。
去る2日の夜、城内で思いがけない事態が起こり、御役所支配の者、召仕などまで何か気づいたことはないかとお尋ねがある。支配の手代、畳屋棟梁ならびに畳屋町人足などまで門の出入に怪しい者はなく、2日の夜には自分の召仕をどこへもやっていない。もし追って気づいたことがあれば申し上げます。以上。
未八月 朝日定右衛門。
21日。この度のことで御側同心頭成瀬藤大夫、大御目付中西甚五兵衛、御国奉行箕形善左衛門、町奉行堀勘兵衛、御目付長井太郎左衛門が詮議を仰せ付けられる。
近頃、江戸から申し来ること。この度のことを報告して耳に入れたところ、留守中の油断からの用心不足によるこの不手際はもってのほか不快と思われている。はなはだ機嫌よろしからずと云々。手加減することなくきつく詮議するようにと云々。城内の警備などは費用に関係なく厳密にするようにと云々。
25日。藤太・甚五兵・善左・勘兵がこの時瘧(間欠熱)を煩っていたので代わりに野崎三郎右は太郎左ならびにタテツケ(たちつけ、袴の一種)を着た目あかし六右衛門が従い、御本丸、御深井を見廻られる。同日夕飯後、御老中・御国御用人衆などが同じところを見廻られる。
9月上旬のことだろうか、両御城代衆が御深井へ出向いた。すかし(透)門の拍子木を3度ずつ打つと、ようやく足軽がやって来て何者だととがめると云々。赤堀次郎兵と加藤紋左は御塩蔵へ見廻りに行くといって戻り、番所の前で出会った。村瀬弥兵は蚊帳をつって寝ていたが、御城代衆だと驚き、蚊帳も外さずに木綿の寝巻の上に袴を横筋違(すじかい)にして慌てて出て行った。甚だ見苦しかったと。新左衛門殿が修理殿へ申されたのは昼間であれならば、夜はもっと心もとないと申された。その上今日のことは我らのことなのでわかっていると申されたと云々。修理殿も新左衛門殿のために甚だ恥ると云々。
23日夜、修理殿へ6人を呼び、家老が1人ずつに尋ねた。その中で喜十郎はいらざることをその時隠して証文を出し遅れ、何かにつけて今となって疑いをかけられて問い詰められた。はなはだ迷惑が及ぶと云々。子刻(午後11時)各帰宅した。
24日。喜十郎は朝飯前に衣服を着替え、座敷へ向かった。食事ができたら置いておけと云々。あまりの遅さに召仕が座敷へ行って見ると、脇差で喉を横向きに突き通し、前へぐっとかき切って死んでいた。