名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

正徳5年、名古屋城に盗みが入った事件 その5

8月2日夜、御深井泊番の御飼殺川合戸平・市橋佐平・岩村弥兵衛右の3人が頭浅野与次右衛門に御預けとなった。

甚左衛門は家計が苦労していたので、宇右衛門などの願いにより明知(空地)の中から内緒で6人扶持を与えた。10月中頃、その後も何れも願いにより左のように扶持が出た。浜嶋甚左衛門には6人扶持。大岡助左衛門には4人扶持。田嶋儀兵衛には3人。井上文右衛門には3人。山崎友右衛門には2人半。この扶持方は家々へ明知奉行から渡した。友右衛門長屋には作左衛門夫婦と子どもの3人がいた。何れも外へ出ることができなかった。その上飢えのためこれにも2人半を明知奉行から9月16日から渡した。

申壬2月28日から山田喜十郎の家へ明知の中から3人扶持が下された。永井善右衛門の願いによって。

10月4日から黒門の番人が替った。

10月7日。8月27日に預けられた輩が赦された。前の通りに勤めた。

9月15日。瓦師十左衛門弟子の弥七・善六は勘兵衛宅に出向いた。

同日、早川伝左衛門に尋ねることがある、急いでいるのでただちに呼び寄せるようにと善左・勘兵から戸田源五右へ手紙があった。

10月12日。御蔵奉行井田源介手代久米吉右衛門・同子甚之亟ともに頭源介に御預けとなった。甚之亟は16歳。上野町の乾元成という町医者の弟で、竹山源次右衛門と申し合わせて夜ごと女・子どもに追剥をはたらくと云々。吉右衛門は極貧と云々。申4月21日吉右衛門は追放となった。源次左衛門は初め遠山彦左衛門のところに奉公していた。近頃、彦左衛門が家老の刀を売ってくれと源次左衛門に頼み、甚之亟が売るとも、あるいは家老の大小2、3腰を盗んで甚之亟へ手渡した。吉右衛門は請合(保証)の証文を出して売らせた。このことから露見すると云々。元成は元の名で今は養貞といった。父は隼人正の医者で武山元菴といい100石取であったと。10月21日、源次左衛門18、9才が牢に入った。兄養貞33才と源次左衛門の実母である母とは町に御預けとなった。吉右衛門もこの日揚屋の牢に入った。甲4月17日、源次左衛門は行赦になった。

10月12、3日頃、初め長嶋町にいた寄子宿(口入屋)八兵衛という者はその後壱岐守殿(竹腰)知行所にいたが、近頃妻子とともに8人美濃へ逃げ出したのを郡奉行から捕らえ、牢に入った。妻子は村へ御預けとなった。

10月18日頃か、所へ預けられた辻番4人について所の者は関係ないので迷惑がった。とにかく支配頭へ何とかしろと御国御用人が申され、水道小屋に4人の居場所を用意し、入れるはずであった。

㋑修理殿家老孫左衛門が喜十郎を問い詰め、しばしば問いかけた。水野庄左衛門の口上書と喜十郎の口上が合わないことを問いかけた。これは御塩蔵が開いていたことについてであった。喜十郎は赤面し、その後わからないと無言になったと。

10月23日。御本丸天守際の新規の番所に番人が勤めた。御城代足軽2人ずつが夜だけ勤めた。御深井すかし(透し)門際と塩蔵御門際の2ヶ所に新規に番所ができた。御城代足軽2人ずつ、2ヶ所で4人が夜だけ番をした。近頃、下御深井にも新規に番所ができた。御庭足軽が夜だけ勤めた。(御弓矢多門の北、西の御釣場より少し東より、堀端南向き)