名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

正徳5年、名古屋城に盗みが入った事件 その4

24日に伝えられたことがあり、26日に左の書付を与左へ遣わした。
朝日定左衛門召仕八平、七平。
この度の城内で事件があり、私どもへもお尋ねがあったが、全く知らないことであります。もちろんどこにも怪しいところはございません。今後も怪しいところを見つけたり、聞き出した場合はすぐに申し上げます。以上。
未8月。
前紙。
私どもの召仕をこの度の事件について厳しく詮議したところ、怪しいところはありませんでした。八平・七平の口上書(口述書)を1通差し出します。
未8月 朝日定左衛門。

27日。今月2日、御本丸御家具多門の作事に戸田源五右の手の者として出向いた左の107人があちこちへ御預けとなる。大工19人。木挽9人。葺師2人。左官4人。瓦師4人。日用47人。定出入22人。(名、住所、預け先は略)。右は何れも未8月2日御本丸御家具多門の作事のためにやって来た輩。

定出人仁兵衛・角右衛門両人のほかは残らず未10月7日に常々のようにと言ってきて、城下ならびに町続きの外へは出ないようにと云々。定出人の中でもし病死があれば知らせるようにと云々。

左の輩は右の107人に含まれる。しかし源五右衛門へ話があり、預けられた者どもである。その他の手紙を書き残す。木引頭斉藤善兵衛甥又右衛門の弟子勘六・伝六・孫七・権八右の4人は又右衛門に御預けとなると。町微行から申し渡したところ、又右衛門に家がなかった。伯父木引頭善兵衛に世話になっていることを伝えると、又右衛門んと共に善兵衛に御預けとなった。(手紙略)

源五右衛門手代小屋番菱田伝介は控えの町屋が巾下新道二あり、御預けの輩がここにいたが、あちこちへ御預けとなった。家守、その他が番人。

建中寺前宮町一郎右衛門のかしや(貸家、鍛冶屋?)弥七は源五右衛門の定出人んで2日に作事に出た者であったが、同じ名があったことに紛れて昨日の107人には漏れていたが、この日28日に所に預けられた。

28日。榎多門前の2日の夜辻番吉川三十郎・常川忠左衛門、西鉄門外の辻番堀次郎九・原田勘平の4人は所へ御預けとなった。

27日、榎多門に足軽番所ができた。

近頃、光音寺村武井四郎左衛門が庄屋の百姓源右衛門のところに番人が附き、その後牢に入ると云々。昔からの盗み、博奕の極悪人と云々。

9月4日、堀勘兵衛のところに山田喜十郎の召仕の女2人は駕籠に乗せ、男1人も呼び寄せて調べがあった。8月2日以降、古手買などに衣服・幕の類を売ったのを見かけなかったか、つぎ切れ(小切れ)などを売っていないかなどと尋ねた。5人衆の召仕には後にも先にも調べはなかった。

この日、勘兵衛宅へ大勢を呼び寄せ、調べがあった。早川伝左衛門ならびに先月3日の朝に榎多門へ請け取りに出向いた定出人2人も出向いた。

御城代足軽、御本丸足軽の妻子なども100人ばかり出向くと云々。

9月5日夜、津田兵部のところに盗みが入り、居間にあった大小2腰、その他衣服、印籠、巾着を盗み去った。堀川端の蔵屋敷へも盗みに入ったとの噂もあった。後に召仕3人を押し込め置いた。
巾着の中には印判があった。関所の切手(通行証)などに用いる判であり、江戸の御老中に判鑑(印影)を遣わし置くことになっていた。このため早速報告すると云々。その後、兵部殿土蔵の壁の作業する出入の日用が、兵部殿屋敷の馬の足跡のくぼみで印判を拾い出した。日用は巾下大伝馬町通り南鷹匠町西横町の新六であった。同町・六句町・浅間町の間米屋茂左衛門という者が常々兵部殿に出入りしていたので10月8日に右の判を茂左衛門のところへ持っていき、一部始終を話した。すぐに茂左衛門は兵部殿へ持参と云々。御国方・郡方から茂左衛門に番人を附けた。家内の道具を詮議した。新六も町方支配の番人が附いた。その後米屋は赦された。新六にはその後も番が附いた。右の盗みは兵部殿子の又六が預け女・博奕などで物入りだったので父の物を盗んでいた。召仕は詰問されたが白状しなかったと。

9月の中頃、宮町市郎右衛門、古木屋円六、相応寺の控家を家探しした。一々帳には記さず。なくなった物があり、これを調べると云々。