名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

正徳5年、名古屋城に盗みが入った事件 その1

未7月30日。夜、下御深井の惣構の堀であちこち散らかっており盗人の仕業と云々。

今年4月頃、成田内左衛門召仕が堀を越え、津田民部のところへ盗みに入った。
この者は民部の百姓で長く民部に奉公し、台所方の用務を勤めていた。
この春に不届きがあり暇を出され、内左のところで奉公していたが、2度盗みに入った。このため民部から町方へ頼み、盗品を探し出した上、この者を民部のところへ貰い、追放した。城内まで入った盗人、時に何度も行うような悪人に対して軽い処罰だと人は評していた。

8月2日夜、城へ盗みが入る。御本丸番人は井上文右衛門・山崎友右衛門・大岡助左衛門、この日の本番は都筑伝左衛門であったが、亡父の一周忌のため佐藤源四郎に頼んだところ、文右衛門は3日は番についていなくて用事があるので、源右に3日に番に出てくれれば2日は自分が番に出るとのことだったので、2日には文右衛門が番に出ていた。友右衛門はこの日の当番ではなかったが、小菅喜右に頼まれて出ていた。
御深井は田嶋儀兵衛、山田喜十郎、浜嶋甚左衛門。
足軽は伊藤金左衛門、水野庄左衛門。
喜十郎の召仕が再び3日の未明にやって来ると、御深井のすかし(透)門が開いていたので中へ入った。喜十郎がどうやって入ったと言うと開いていたと言った。喜十郎が思うには昨晩の足軽がうっかりして開いたままだったので、召仕には黙っていろと言った。足軽がどうやって入ったと言うと開いていたと言った。足軽も召仕に黙っていると言った。

3日の朝、御塩蔵へ山田喜重郎と足軽(水野庄左衛門)1人が見廻る。門のゑび(海老)錠が側に捨ててあり、扉も開いていたけれど、これもまた昨晩のうっかりしたのかということで済ませた。そして何事もなかったように番を交代した。道で御本丸の明番に出会うと、御本丸に昨夜盗人が入ったようなので頭に出かけて報告するところだと言ったが、御深井の番人はどうしたのか、この時にも気づかず頭へも届けずに帰宅した。(御本丸明番に御深井明番は孔雀門のあたりで出会い、天王の前まで一緒に行きながら話したけれど喜十郎は気がつかなかった。)3日に御城代足軽小頭が昨夜御深井の番だった足軽を問い詰めるとこの件を話した。小頭が言うには、それならば昨日の上番(当番)衆から頭に届けがあるだろうと言うので、足軽は昼頃喜十郎へ出かけた。このため喜十郎から甚左などを呼びにやり、話し合って未刻(午後1時)にようやく頭へ知らせた。月番も修理殿だったので月番兵部殿へ出かけた。御本丸の変事をこの朝知らせたところ、他に代わったことはないかと念をおされたのに、御深井のことを後で行って話したのは首尾がよくないと。

3日の御深井の番人は松井勘右衛門・赤堀次郎兵衛・広瀬甚之右衛門、御本丸は平岩作左衛門・都筑伝左衛門・佐藤源四郎。

榎多門の扉は開いていた。御深井すかし(透)門、御塩蔵の門はいずれも扉が開いていた。ただしすかし御門はくぐり(くぐり戸)が開いていた。何れも相(合)で鍵で開けたのか、傷ついておらず、ゑび錠は開けて側にあった。御塩蔵の中(御舂屋口の門のこと。番人が見廻れば見るところ)、御深井御庭口の門も開き、一之門(俗に肥後殿の門と言う)は錠に触れられておらず、扉の下にけ(ママ)はなし(敷居)はなく、少し隙間が開いていた。その下にある石を割って掘り、盗人はくぐって御本丸に入ったようであった。それから北の方へ御土居をつたい小天守へ行ったのか、小天守御金蔵の戸の前の上をかけや(掛矢)などでしたたかに叩いたのか、中ににめり込んでいた。錠もねじり、金てこ(梃子)で下を起こしたようであった。しかし中は無事であった。番所から小天守がんき(雁木)下まで42間(1間は約1、8メートル)あると云々。そこから2つの錠口を開け、御幕蔵の扉を開け、幕5張を盗み去った。どんすちろめん(緞子縮緬)、ぬい(縫い)付紋の幕もあったと。硫黄で明かりを灯したようで硫黄がこぼれ、発燭(付け木)火打箱の蓋などもあった。そこから御旗多門の錠も開けたが、中へは入らなかったと云々。5ヶ所へ盗みをはたらくと云々。

8月2日の夜の御本丸浦番は田中太左衛門・古屋円右衛門。
この番所から一の門下の石を割ったところまで14間2尺(1尺は約30センチ)あったと。

中の番は倉橋常右衛門・岡井小平治・田中伝六。

外の番は星野庄右衛門・東野源兵衛。

夕暮れから寝ずの番に来たのは中山権兵衛。

御深井のあかずの門前に草履が1足脱ぎ捨ててあった。その他に足跡も多く見られたと。一と二の御門の間にとうゆ(桐油紙)が1枚広げて捨ててあった。軽い9段の階子(梯子)が1挺捨ててあった。どこの階子かはわからず。

御深井の御作事小屋の棒を2本取り、これで御幕を担いで出たようだと云々。

榎多門を8月2日の夕がた閉めに行った足軽は佐橋半六。

3日の朝、門を開けに行ったのは森崎勘左衛門。

3日の夜、揚提灯(高張提灯)で集まった乞食の名と住所を帳に記す。

橘町へも5日に触れがある。家々に幕を買わないことを証する。

4日に御城代組番衆を小頭へ呼び、御本丸に足軽の番ができる。当分番所がないので番所へ入れ置くようにと云々。御城代の足軽2人ずつが勤める。上番も1晩中眠らず。足軽が廻るたびに同じように廻る輩もある。