名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

泉光院は継友の母親

正徳3年10月30日。
朝、火事の噂がある。

近頃、小判1両の切賃(手間賃)は130文。

この日髭を剃り、召仕の月代を剃るようにとの廻文がある。
組の者には廻さず。

この日、廟の台石を置き、よく1日から番人は必要なくなる。
石屋は全員大坂からやって来ていた。
石碑仕上げの重さは40石(1石は約150キロ)余り。
台石の仕上げの重さは25石余りと云々。
近頃、隼人正領分の川並ならびに草井というところの番所のあたりで台石を船から落としてしまい、大勢人を雇って何とか引き上げた。
このため10日ほど遅れる。
石の運搬を請け負った者はかなり損をすると云々。

三和七左衛門は主人の体調がよくないのを見て、下屋敷の木や竹を大分切って沢の観音の南隣の自分の控家に運ばせ、知行を催促し、数百石を納めて自分の取り分とした。
親類などは跡目を立てようとしたが、七左衛門は永昌院と相談してその企みを潰そうとした。

泉光院は吉田八兵衛の娘で、八兵衛は行方不明であった。
泉光院殿は初め泰心公(徳川綱誠)に仕え、亀太郎様を生んでいた。
その後内藤左平に下されることになったところ、子のある者を外へ遣わしてはいけないとの大公の考えでまた呼び戻した。
吉田叔元(伯父なり)・壱岐守同心いとこ分吉田新七・長野万徳寺玄永法印は弟であった。
簗瀬藤助の母の姪は泉光院の母であった。
千賀志摩手代深萱覚左衛門は藤助母の弟であった。