名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

田沼意知の暗殺事件

天明4年(1784年)
3月24日、江戸表御殿中長廊下にて佐野善左衛門が田沼山城守を討つ。
赤穂以来の大騒動となる。
委細は誰もが知るところではあるが、あらましをありのままを次に写しとり、記し置く。

殿中においての刃傷のこと。
泰山重からず(自分のことを理解する人に出会うことが大切)、君命おもし(主君の命令は重い)、一髪軽からず(髪の毛1本にも重い意味や価値がある)、一命かろし(命を捨てることを少しもいとわない)とは、大石内蔵助の遺言は真実であろうか。
これに類するのは、佐野善左衛門が自分の命を投げ打ち、忠誠心から目的を成し遂げ、全ての人の憂いを拭い去り、まず乱れた世を直そうと、去年からあれこれ悩み、妻子や友にも知らせず、暇を与え、自身は毎日田沼氏の噂をひっそりと聞くことに専念していたことである。
にもかかわらず、父主殿頭は倅などには悪人ではないと評判であるが、自分も他人もその威勢を恐れて嘘をついているように思える。
しかし、田沼は享保5子年であるので、今年で65才である。
生きていても1、2年、もし長生きしても10年はもたないだろう。
息子は寛保3亥年の出生であるので、42才である。
息子を討てば、父も一人息子であるので力を落とし、病死するはずである。
もし、病死せず、長生きしたところで、杖や柱と思う息子が殺害されればどんな間違った心の持ち主でもいったんは改心するずである。
いずれにしても、親を捨て、山城守を討ち果たそうと思い、そのことを神仏に祈っていた。
ところが2月も過ぎ、3月の上旬になり、この間2度殿中において山城守に出会ったけれど、場所が悪く、目的を達することはできなかった。
残念ながら、歯を食いしばって先送りした。
ところで、3月24日は当番で殿中に上がるので、23日の夜には、明日こそは逃がすまいと奮い立ち、場所が悪くても討ち果たすと思い詰めていた。
24日早朝より田沼山城守の登城を待っていた。
山城守はこんなこととは夢にも思わず、桔梗の間から同役太田備後守を右に、間に山城守、左に加納遠江守の3人が並んで長廊下へ差し掛かった。
佐野善左衛門はそれを見ると短刀を抜いて飛び出し、後ろの遠江守殿を突きのけ、田沼山城守しばらく待て、佐野善左衛門であるが覚えがあるだろうと。
善左衛門の恨みの刃を請けてみろと飛び掛かり、一刀で山城守の左の腕を切りつけ、右の足の付け根まで切りつけた。
これに山城守は驚き、後ろへ逃げ戻った。
大目付衆は大変だ、早くはせ参じろと叫んだ。
佐野善左衛門がすかさず次の刀で額を割ろうと切りつけたところへ、大目付松平対馬守殿が最初に駆けつけ、善左衛門に飛び掛かって羽交い絞めにしたところ、次に御目付柳生主膳正殿が同じく駆けつけて組み止めた。
それから次々と人が駆けつけ、たちまち大騒動となった。
これが諸大名・御旗本衆の屋敷に伝わり、どこも本当のことがわからず、家中の者どもは主人の大事と我先に馬に鞭を打って駆けつけたけれど、大下馬先の御門を閉めてあったので中に入ることができず、大勢がここに集まって騒いだ。
このため、本多志摩守殿が駆けつけ、御殿中へも響く大声で何れも静まれ、田沼山城守と佐野善左衛門との刃傷である。
しかし、命に別状はないと叫んだので騒ぎは次第に静まり、田沼山城守殿を乗物でそのまま屋敷へ連れ戻った。
佐野善左衛門殿は、酒井甲斐守殿へ御預けの上意があり、曲渕甲斐守殿へ言い渡され、て揚屋へ遣わされ、終わると未ノ刻(午後1時)になっていた。
赤穂以来の騒動とか。

旗本の会合ならびに佐野善左衛門切腹のこと。
しかし、佐野善左衛門はかねてからの望みを果たしたが、思いがけなく揚り屋に遣わされることとなったので、旗本はとても怒り、これまで刃傷に及んだことは度々あったが、大名は大名へ御預けとなり、それで落着していた。
もっとも、善左衛門は旗本だったので揚り屋へ遣わしたと思われた。
しかし、旗本は禄に多少があるが、どうして天下の忠義に優劣があろうか。
我らへも御預けについて仰られたところでは、牢屋同然の揚り屋へ遣わされたのは、小身者と侮ってのことであり、このままでは納得できない。
何とか旗本へ御預け下されるよう願うと話がまとまったので、願書を差し上げたところ、相手の山城守殿が傷の治療が叶わず、3月26日夜亡くなったので、旗本衆の願いを気にすることなく、翌27日、評定所において佐野善左衛門を調べ、返答書を差し出された。

新御番蜷川相模守組 佐野善左衛門。
この度、私の田沼山城守への恨みを尋ねられたので申し上げます。
4年以上前、佐野亀五郎へ山城守が申されたのは、佐野氏系図などを見たいので、しばらくの間だろうと思って貸したところ、佐野氏の系図は佐野善左衛門のところにあるとのことで、私のところへ見たいと言ってきました。
亀五郎はよく世話をしてくれたと、一昨年御小姓を仰せ付けられました。
私の系図はどうしてもとのことであったので、しばらくの間と思って貸しました。
その後、度々返してくれるよう申し遣わしたけれど、一向に返事はありませんでした。
また、私の知行は三州で高500石、収穫も2000石ほどあるところがあり、ここに田沼大明神という社が何年も前からあり、神主も置いていたところ、度々田沼氏の指図なのか領地を探っておりました。
もっとも、田沼家は私の先祖の家来で、系図などを私が所持していました。
その上、近々役替えを手配してくれると公用人(幕府の用務を扱う役人)などが言うので、取り立てもあるかと思い、私はわずかな身代の中から金子600両を差し出し、先日将軍の遠出の際に御鷹野場で雁1羽を射止めたところ、山城守があなたではなく他の者が射止めたものだなどを言い、将軍にもこのように申し上げたと、その上新法も企て、旗本を小身者と侮って軽んじることは重ね重ね恨みがつのり、殿中とわきまえず切りつけてしまいました。
お調べにあいましたので、概略を申し上げました。
この差し上げる7ケ条の中に、詳しい理由があるので吟味の上、私にはどのような処罰でも言いつけ下さい。
辰3月27日 新御番佐野善左衛門。
(朱書)「当30歳計」。

その方の儀、去る24日に乱心と言いながら、殿中において田沼山城守へ手傷を負わせ、その後亡くなってしまったので、揚屋において切腹を申し付ける。
辰4月3日。
(朱書)「別記に元新御番善左衛門隠居佐野伝右衛門 お構いなく、家財はこの伝右衛門に下される旨」

御請(返答書)。
当家の先祖は、不肖の私まで代々神君以来深い恩義を請けていましたところ、この度天下の嘆きが見うけられたので、去る24日山城守を討ちとめたことは、忠義を尽くすのは今しかないと、殿中ともわきまえず、乱心と申し上げてはおりますが、元々覚悟の上のことであり、重い役儀を勤める山城守のことであるので、小身の私が会うこともまたとなく、場所柄もわきまえず、やむを得ず、事に及びました。
先祖よりの家名を投げ打つことは、恐れながら恩義に報いて刃傷に及ぶも、討ちとめることができず、とても残念に思っていたところ、山城守が亡くなったと聞き、誠に命にかえても果たしたい望みであり、この上ないことでありました。
重い罪に問われることを覚悟していたところ、侍らしく切腹を言いつけられたのは有難いことであります。
ここに申し立てます。
以上。
これは、評定所において大目付大屋当遠江守殿、町奉行曲渕甲斐守殿が、御目付山川下総守殿立ち合いで2人からが申し渡す。
3日の夜戌の刻(午後8時)、揚り屋での切腹の際に出向いた役人は次の通り。
御目付 山下下総守殿。
御使番 神尾作右衛門殿。
御徒目付 米屋政七。
同 古川斎次郎。
御小人目付 尾本藤右衛門、神田徳右衛門、渡辺茂兵衛、大熊直次郎。
南町奉行所山村信濃守組 由比忠五郎。
北町奉行所曲渕甲斐守組 藤田助十郎、松山幸内。
天明4年。
介錯人高木伊助。
添役大芽小次郎。
この役人が立ち合い、4月3日夜、佐野善左衛門はいさぎよく切腹し、死骸は親類へ下される。
4月4日、菩提所浅草門跡寺中神田山徳本寺へ葬ったところ、多くの参詣者が集まったので、処罰があってはいけないと、門前に親類の他、参詣は無用と張札するが、それにもかかわらず、参詣の者はますます増え、法号ではなく佐野大明神と言って拝み、石碑の前には賽銭が毎日60貫文あると。
他にも金子、あるいは2朱銀なども供え、さらに参詣の者が集まったので、4月13日、寺社奉行の役人がやって来て、親類の他は門内には入れなかった。
しかし、この役人が7ツ(午前4時)過ぎに引き取ると、その後からまた参詣の者が集まって山のようなになり、今もって参詣の者が多くある。
浅草門跡寺中、表門を入って右の方、神田山徳本寺新しい門の中の左の方にある石塔の写し。
天明4辰年。
元良院殿頭居士正定聚位。
4月初3日。
佐野善左衛門藤原政士墓。

次の制札は4月11日に立てる。
ただし、二王門の中、少し入ってすぐにある。
無縁の者は墓前へ参詣しないようにと奉行所が言いつけたので、参詣一切するまじきこと。

若年寄 25000石 (朱書)「羽州松山」酒井石見守。
同 50037石余 「遠州懸川」太田備後守。
同 12000石 「武州金沢」米倉丹後守。
御普請奉行 1200石 「席順朱書の通り」「四」青山但馬守。
町奉行 500石 「一」山村信濃守。
御本丸御留守居 700石 「八」堀内膳。
小普請支配 4000石 「六」中坊金蔵。
小普請奉行 1200石 「五」村山甲斐守。
御勘定奉行 500石 「二」桑原伊与守。
(朱書)「勘定」御作事奉行 3000石 「二」久世丹後守。
日光奉行 1800石 井伊理左衛門。
御作事奉行 1500石 「三」柘植長門守。
新御番頭 700石 「七」飯田能登守。
御勘定吟味役 150石 「九」倉橋与四郎。
(朱書)「別記に、若年寄衆は銘々に言い渡され、違いがある。
細かな違いでほとんど同じである。
ただし、その際、しかるべき処置もあるようにとの考えである。
このことを申し聞かせるようにと言いつけられる。
この文言は同じことである。
これを言いつけられたので、差扣(謹慎など)について伺ったところ、登城はしてもよいが、御目通りは差扣とのこと。」
この者たちは、先月24日に佐野善左衛門が田沼山城守へ手傷を負わせた際、その場に居合わせ、上手く処置することができなかったのは不届きであり、このため御目通り差扣を言いつける旨、中之間において老中列座で久世大和守が言いつけられる。

大目付 1000石 松平対馬守。
この者は、先月24日に佐野善左衛門が田沼山城守へ手傷を負わせた際、その場で争って取り押さえたのは感心なことであり、200石を加増する。

大目付 2200石 牧野大隅守。
同 1200石 久松筑前守。
この者たちは、先月24日に佐野善左衛門が山城守へ手傷を押させた際、その場で争って上手く処置することができなかったのは不届きであり、差扣を言いつけられる。

御目付 1500石 井上図書頭。
同 1000石 安藤郷右衛門。
同 2000石 末松善左衛門。
この者たちは、同様のため差扣を言いつけられる。

御目付 2500石 跡部大膳。
同 500石 松原田宮。
この者たちも同様のため、役を解く旨、(朱書)「寄合が言いつけられると」。
これは、久世大和守宅で本人が言い渡す。

御目付 600石 柳生主膳正。
先月24日に新御番佐野善左衛門が乱心し、山城守へ手傷を負わせた際、その方は桔梗の間に詰めており、すぐに立ち向かったと聞いているが、抜き身を持っていたのですぐに取り押さえることもできたはずなのに手間取り、山城守がしばらく鞘のままの刀で相手をするうちに、傷が数ケ所に及び、この傷がもとで死んでしまった。
その仕事ぶりは不届きと思われる。
言いつけられこともあるところだが、松平対馬守が組み留めた際に続いて押さえつけたので、問題にはせず、今後、気を引き締めるよう旨言い渡す。
(朱書)「差扣について伺ったところ、それには及ばない旨指図があると」。

新御番蜷川相模守組 万年六三郎、猪飼五郎兵衛、田中伝左衛門、白井主税。
先月24日、若年寄出仕の際に相番佐野善左衛門が乱心し、山城守へ手傷を負わせた際、その方たちは番所におり、佐野善左衛門が駆けだした時にそれを阻止しようと出向いたところ、番所に誰もいなくなるので戻るように言いつけたが、そのまま走り出したのは優先することを判断することなく、不埒の極みと思われる。
このため、御番を解職して小普請入りを言いつける旨、加納遠江守宅において山川下総守が出向いて申し渡される。

(朱書)「次の両人への言い渡しは天明6年8月27日と閏10月15日夜の2度」。
稲葉越前守。
その方にはお考えがあるので、役儀を召し上げ、菊の間縁頬詰(えんづらつめ)を言いつけ、昨年春に下された加増は召し上げる。
(朱書)「午8月27日」。
(朱書)「8月27日に役目を解く」

57000石 田沼主殿頭。
その方は、先だってお考えがあり役目を解かれたが、この度、知行20000石減を言いつけられ、ならびに屋敷、大阪屋敷を没収、きつく差扣るよう。
ただし、屋敷は明後日7日にまでに空けるように。
(朱書)「午閏10月5日夜」

このあらましを記し置く。
以上。

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