2024-06-22から1日間の記事一覧
宝永7年4月29日。近頃、あちこちで狼が現れる。人を食い殺し、傷つけることがとても多い。昨日朝鮮人が来朝する。先年は道筋の宿や橋、道路のことを東海道の宮までお尋ねがあったが、今回は名古屋、西美濃、江州などの国主・領主へお尋ね書付が届いた。…
宝永7年4月28日。公儀巡見衆使番梶四郎兵衛・小姓組田中一郎右衛門・書院番川口茂左衛門3人は近頃知多に滞在していたが、この朝鳴海を出発し、当町(今の東区)を通る。町奉行は犬堂(犬御堂)へ出向き、そこから大曽根あたりへ行き、待っていた。国奉…
宝永7年4月26日。滋野井宰相公澄卿が熱田に泊まられる。今年の日光例幣使で、去る1日に京を出発し、16日に奉幣を行われた。20日に江戸へ入られた。27日に名古屋を通り、聖徳寺へ立ち寄られ、供応が行われる。濃州筋から京へ上られる。
宝永4年4月25日。尾頭で和泉屋十三郎の芝居が行われる。近頃、山寺甚兵衛草履取森平が新町酒屋新左衛門のところへ盗みに入る。
宝永7年4月23日。美濃谷汲の観音が開帳し、人が集まる。
宝永7年4月22日。文左衛門は役料を井田源助に頼んでいたが、この日に売払う。1両で1石1升8合、この代金は13両3匁8分9厘となる。西門跡が名古屋を通り、美濃路を上られる。
宝永7年4月18日。昨日、二条家が佐屋を通られる。この日、九条様が熱田に泊まられる。明朝、佐屋から桑名へ渡られる。供応などは前と同じであった。2度の進物及び役人へ色紙・綿など下される。
宝永7年4月17日。祭礼が例年の通り行われる。連枝様方が例年の通り見物する。巳下刻(午前10時半)、神輿が出る。旅所へ移るまでは雨が降らず、未上刻(午後1時)の御前から戻る前から雨が降り出す。車・練物などが濡れてしまう。寛文7年は戻る際に…
宝永7年4月15日。春日井郡下飯田村真言宗安国寺の住僧が10日の夜包丁で自殺する。23歳で、安国寺は開帳の最中であった。14日、山田へ行く土橋のかかった下飯田の江川で女の死体が出ていた。喉と足の裏に傷があり、いらという名であった。去年まで…
宝永7年4月11日。納屋裏の小便取が本町門の西の堀端で吐血して死ぬ。
宝永7年4月7日。この夜、鍛治屋町1町目東側の新田庄屋彦八姉の部屋の屋根から火が出るが、すぐに消し止める。放火の噂があり、彦八の下人が牢に入る。
宝永7年4月6日。海東郡諸桑村の地蔵が昨年から少しずつ話題になっていたが、先月から大流行りとなり人が群れ集まる。去年の草鞋と同じであった。
宝永7年4月5日。野々宮宰相定基卿が早追(急使)のように急いで上京する際に熱田を通られる。昼過ぎに熱田に到着し、直ちに船で出発する。用務で急に奏聞(上奏)することがあったと噂になっていた。どういうことだったのか。
宝永7年4月4日。子(午後11時)過ぎ、鍛治屋町石町上る西側の借屋1軒が焼ける。堀田弥五右の裏であった。近衛前大政大臣基凞公が熱田に泊まられる。江戸へ下られ、今年の秋までは江戸に滞在と云々。供応は松平周防守が勤める。
宝永7年4月5日。昼過ぎ、急に乾(北西)の風が吹き荒れる。夜になって風が静まる。宝永7年4月7日。熱田沖は風が吹き荒れて波が立ち、船2、3艘が破損する。そのうち知多郡大野村わたや六兵衛手代勘介が溺れて死ぬ。宝永7年4月10日。雨が降ってま…