名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

こりゃ大火事だ

宝永7年9月27日。
勝蔵で文左衛門は酒を頂く。
勝蔵は金15両を持参して貸してくれる。
来年卯年の暮から3両ずつ元(現)金で未の年の暮れまでに返してくれればと云々。
かけてくれた恩はたとえようもない。

丑刻(午前1時)、巾下あめや(飴屋)町から火が出る。
乾(北西)の風が強く、猛烈な火が飛び散る。
文左衛門は役所へ出向く。
燃え落ちたところがたくさんあると聞こえてくる。
弥次右は気分がすぐれず現れなかった。
夜明け、弁当を取りに行かせ、酒・食事をとる。
巳(午前9時)前、城代衆が帰られたので、文左衛門は仲間と出かける。
5、6人と焼け跡を一巡りして帰る。
火元はやぶ下一郎右衛門の控家で、志水甲斐歩行の者伊藤文平と云々。
実は西隣との屋間(庇間、狭い場所)に積んでいた藁から火が出た。
付火であった。
しかし、それでは決着はしなかった。
目付のところへ文平を呼び寄せ、詮議があった。
両家老甲斐・飛州の家来は何事であっても両家で詮議することになっていたが、目付はそれを無視したと云々。
広井筋はもちろん長坂佐治兵衛のあたりまで火の粉がばらばら飛んできた。
本町・七間町まではことごとく道具を片付けた。
早川十右衛門の榎に火が燃えついて騒ぎとなった。
灰は知多のあたりまで飛んでいったと云々。

吉見刑部の母は最近煩っていた。
六句村の控え町家が最初に灰になり、刑部裏までめきめき焼けてくるのを聞いて気を失い、気を取り戻すことなく28日の夜死んでしまった。
神家(社家)の習わしで家で死ななかったことにした。
晦日に上野山やしきへ送り、ここで死んだこととした。
臥棺(遺体を横にする)で儒法に葬った。
浅間社、三谷若狭の家が焼けた。
本願寺も2ヶ所、正覚寺・崇覚寺も焼失した。
留田勘左衛門の六師村へも水が入り、だいぶ壊れてしまった上、雪隠までも残らず消失した。
三谷若狭三男と押切村文右衛門の子が見当たらず、焼け死んだかと云々。
今度焼失したところの高はあわせて4000石と云々。
名古屋村の内で焼けた家は本家が101軒、借屋が62軒、蔵が5つ。
町屋で焼けたのは本家160軒、借屋125軒、内1軒は半焼、1軒は家を壊した。
全ての家数は448軒、ほかに社1・寺2。
鷹匠町で焼失した輩は南から北へ東側。
供番 飯田源市、安田堅阿弥。
馬廻 西村清兵衛、五十人 吉田久治郎。
梅昌院様御侍 青山九兵衛、五十人目付 吉田市左衛門。
馬廻 吉田平内 長屋は残り、本家は焼ける。
北側はここまで焼ける。
同東側は南から。
細野篠兵衛、落合助之進。
小普請 小久保弥五、馬廻 吉田勝兵。
馬廻 塀和伊左衛門。
鈴木太兵衛 馬廻の長屋だけ、北で焼けたのはここまで。

細野篠兵衛は今までに5度火事にあうと云々。