2024-05-08から1日間の記事一覧
宝永6年7月29日。卯半(午前6時)過ぎ、公は下之一色へ漁に出かけるため深井から出られる。惣河戸までは馬、惣河戸よりは船で向かう。酉(午後5時)過ぎに帰城される。捕ったのはは鱸200本余り、鯉60本余り、かれこれ物の数は600本余りと云々…
宝永6年7月26日。文左衛門は午(午前11時)から勝川へ出かける。源兵・権内は朝から行っており、鮎を捕っていた。松神(河)戸のあたりで会う。鮎・鯰で腹がいっぱいになる。酒を飲んで楽しむ。申半(午後2時)過ぎに帰る。
宝永6年7月25日。公は深井から直ちに味鋺あたりへ出かけられ、急であったので槍などはなく、側衆も太刀を持って追いかけると云々。小舅の岡本武左衛門・堀内兵左衛門の子2人は3人連れ立って幕の内を外から窺い覗いたと云々。近衆に命じてわざと脇を鉄…
宝永6年7月19日。修理殿から左の廻文が来る。これは仲間への廻文ではなく、愚かななものと笑った。来月2日3日4日と家督の祝儀として能を仰せ付けられた。このため元禄7戌年に泰心院様が家督を継がれ、初めて名古屋へ戻った際に能を仰せ付けられた際…
宝永6年7月18日。竹腰民部が継目の礼で銀30枚、太刀金馬代・二種一荷を献上する。御手自ら熨斗を下され、家老3人に御目見がある。その後紀国様から使者淡輪新兵衛が登城する。このためこの日は大須で芝居は行われなかった。今朝、民部右筆小林善助が…
宝永6年7月15日。近頃、放火したとのことで預かりとなっていた長屋六左衛門召仕の女に近頃片が付いたと言ってきたので暇を出す。中根文左衛門・松平善左衛門火事の際に居合わせた女であった。
宝永6年7月14日。文左衛門は辰(午前7時)過ぎから弥次右と大森寺へ出かける。清左衛門・弥左衛門は先に行っていた。木ケ崎で弁当を食べて休憩し、巳(午前9時)過ぎに大森寺に到着する。ずっと酒を飲み、昼過ぎに冷麦を頂き、夕暮れ前に膳が出る。子…
宝永6年7月13日。秋元但馬守が清須で昼休みをとられる。使者として美濃路を通って京へ向かい、その上大坂にも行かれる。寄合衆8人に飛騨守宅で火事の際4ヶ所の固めるようにと仰せ渡される。泰心院様の時に500石以上の者に仰せ渡されており、今回も…
宝永6年7月10日。竜泉寺では50日の開帳が行われる。
宝永6年7月9日。辰半(午前8時)、公は建中寺装束所へ入られる。髪を結いなおし、衣冠を召して本堂を詣で、それから瑞竜院霊屋、廟・霊仙院様(光友夫人)霊屋・泰心院様霊屋、廟・瑩珠院様(綱誠夫人)守殿へ詣で、右5ヶ所へ黄金1枚ずつならびに太刀…
宝永6年7月7日。松平玄蕃様の生見霊(いきみたま、親の魂を祀る)の祝儀として左京様にこの日膳を上げられ、役人にも料理を下される。渥美甚五郎も盃などを頂戴し、ちょうど良い時と山城守様の勘気を詫び、さらには諌めた。さしでがましいと玄蕃様に命じ…
宝永6年7月8日。本坂を過ぎ、呉(御)油まで2里(1里は約4キロ)のところで、腰物奉行の足軽神戸忠右衛門が永田三左衛門足軽目付を切ってすぐに自殺する。三左衛門足軽は年も倍ぐらいで分をわきまえずに思い上がり、何事においても忠右衛門に指図して…
宝永6年7月7日。辰半(午前8時)に供を揃え、巳刻(午前9時)に衣冠を召して参詣される。真太刀(本物の太刀)・黄金1枚を献上される。翌日の参詣も献上は同様。隼人正が御太刀・刀を扱う。飛騨守は鼻緒の太い草履を扱う。
宝永6年7月4日。この4、5日大潮で熱田へ高潮が打ち寄せていた。この日は特に高かった。正覚寺の畑を潮が満たす。石臼屋の出茶屋は潮に浸かる。築出あたりの家へも潮が入る。夜は焼明を持って人は眠らないと云々。材木場へも潮が寄せ、惣河戸竜ノ口から…
宝永6年7月2日。未(午後1時)頃、乾(北西)に雲が現れ、雷が少し轟いて止む。その後、雨が降る。宝永6年7月4日。昼前、わずかに雨が降って止む。その後、巽(南東)の風が吹き、雲が乾(北西)へ流れて行く。日が暮れて時々雨が降り、戌刻(午後7…