名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

本当に何をしているのかよくわからない

宝永7年6月12日。
文左衛門は辰刻(午前7時)から尉右・藤蔵と水野へ出かける。
文左衛門は槍・挟箱を持ち、若党・草履取を連れていく。
久治の部屋に2升樽を1つ、干きすを20枚を持参する。
勘太へ有平糖の曲物1つを持参する。
印場は斉場とも書く。
左の方に渋(ソブ)川天神の社がある。
新居で弁当を食べる。
新居を出発すると左の方に大池がある。
常に水が濁っているので濁池という。
しばらくするとまた右に大池があるが、名はわからない。
追分があり、左は定光寺路と瀬戸道であった。
水野近くなると山道となり、段々と登っていく。
坂があり、柏井坂という。
道端の左には大きな石があり、立石といった。
下には小さな段があり、石の半分と云々。
この段から上まで5尺(1尺は約30センチ)、下も5尺あるように見えた。
地上4、5寸(1寸は約3センチ)ほどのところに段があった。
尾城(名古屋城)の普請の時に小金山の感応寺から引き出したところ、観音が惜しんだのかここで車も動かなくなり、終に捨てていったと云々。
昼、勘大夫宅へ到着し、袴を着る。
茶づけが出て、その後、夕飯が出る。
二汁・塩厚・焼鮎・鮎の酢・焼ばへなどいろいろとあった。
書院からは座って西南遠くまで見ることができ、また耕作(植栽?)も咫尺(しせき、近く)だけなので絶景、涼しさはたとえようもなかった。
乾(北西)に見えるのは大平(ヲヲヒラ)山、西に見えるのは当国山(東谷山?)。
この2つの山の前に見える山は小金(ヲカネ)山という。
坤(南西)に見えるのはゑびつる山という。
南に連なる山を前(マヘ)山という。
当国山には東門の滝というものがある。
しぶきが飛び、奇石は尾張に並ぶもののない光景と云々。
申刻(午後3時)、御殿へ出向くが、今は御殿はなかった。
預かっている鹿を見物する。
母鹿が4頭、小鹿が3頭おり、1日に大豆7合と草を食べる。
それから勘大夫先祖の廟所へ出かける。
ここには勘大夫が引き立てた禅寺があり、その西には八幡の社があった。
八幡の社は大公が建立したものであった。
それから勘大夫の持つ山へ登り、腰かけ休みながら四方を見るとたとえようもない景色であった。
夜、なら茶を頂く。
月の明かりは昼のようで、1晩泊まる。

紀州入国の祝儀に中村又蔵が行くはずがだったが、真宮様の薨により昨日にわかに中止となる。