宝永7年5月12日。
申刻(午後3時)、武右から手紙がある。
都筑伝左は当時三州にいると云々。
助六のところから早々に飛脚を遣わし、帰宅次第知らせるようにと云々。
田嶋茂兵衛は地廻りをしながら今まで又左衛門を探していたが、最早行わなくてよいと云々。
近頃、狼があちこちに現れており、あわせて18人を食い殺していた。
狼の雌、雄と子がいたが、雌と子を近頃殺した。
このため雄の狼が大いに荒れた。
この1匹だけであったが、とても賢い狼で手に負えなかった。
柴山百助・水野文四郎などが村へ向かい、狼を撃とうとした。
この日、水野勘大夫に命じ、百姓の苦労や金銭は気にせず、どれだけの人数を使ってでも狼を打つようにと云々。
国奉行も明日から1人ずつ順に出向き、勘大夫と2人で指揮をし、狼を捕らえようとする。
勘大夫も明日から出向く。